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Column Feature Tweet Yoko Shimizu

芸術と人間性は分けて考えるべきなのか

YOKO SHIMIZU COLUMN


ラジオディレクター清水葉子コラム

清水葉子COLUMN
RADIO DIRECTOR 清水葉子

フリーランス・ラジオディレクター。TOKYO FMの早朝の音楽番組「SYMPHONIA」、衛星デジタル音楽放送ミュージック・バードでクラシック音楽の番組を多数担当。「ニューディスク・ナビ」「24bitで聴くクラシック」など。趣味は料理と芸術鑑賞。最近はまっているのは筋トレ。(週1回更新予定)

先頃のハリウッドの大物プロデューサー、ワインスタインのセクハラ騒動から端を発し、様々な業界で問題化している性被害。「#MeToo」のハッシュタグで日本でも実名での告発があるなど、世界中で被害者が声を上げるケースが相次いでいる。音楽業界でもメトロポリタン歌劇場音楽監督のジェームズ・レヴァインやNHK交響楽団の名誉音楽監督シャルル・デュトワなど、日本でも馴染み深い二人の指揮者が告発されたのは衝撃だった。少し前にはロシアの指揮者、ミハイル・プレトニョフが少年への性的虐待の容疑でタイで拘束されたことがあった。しかし当時日本ではあまり問題視されず国内オーケストラへの客演は今も続いている。

この手の問題で話題になるのが、芸術と人間性は分けて考えるべきなのか、ということだ。究極的には殺人犯でも素晴らしい芸術を表現できるなら、果たしてそれを賛美することは正しいのか。クラシック音楽業界はじめ、とかく男性優位なこの社会において(性的問題については男性から女性へのケース以外にもありうることだが)、この問題は芸術が素晴らしければ、その芸術の創造者たる本人の資質は関係ない、という風潮が強い気がする。芸術家=人格者という考えはある種の理想形ではあるが、実際それは別問題だという事実ももちろんある。

しかしジャーナリストの江川紹子氏が『音楽の窓から世の中を眺めて』からでも書いているように、音楽業界はこうした性的被害が生まれやすい環境にある。大御所の教授や演奏家、あるいは指揮者のもとでレッスンを受けたり指導をされたりするのは、若い生徒やフリーランスの演奏家などだ。そうした場合、立場の弱い者がセクハラをされても仕事や将来への影響を考えるとそれを訴えることは非常に困難だと思う。私も学生時代に周りにそういったケースを耳にしたり、実際友人から相談を受けたこともあった。

またここで書くのは適当ではないのかもしれないが、私は少し前に検察審査会に関わったことがある。内容については詳しく書くことはできないが、そこで性的被害を受けた事件を扱ったことがあり、そこでこの問題の男女の意識の差を突きつけられて呆然とした経験がある。検察審査会といえばフリージャーナリストの伊藤詩織氏が実名と顔を晒して会見をしたケースも記憶に新しい。彼女の著書『ブラックボックス』を読んだ時も思ったが、性犯罪による記憶と傷はそう簡単に癒えるものではない。しかしそれを法的に証明しようとすれば、それは時間との戦いでもあり、いち早くその証拠を揃えて提出するなどの行動力が必要だ。かくいう私も子供の頃痴漢に遭遇したことがあった。深刻なことにはならなかったが、その時の恐ろしさを考えるといまだに気分が悪くなることがある。そうした経験をした女性は私以外にもきっとたくさんいるに違いない。被害を受け、傷ついた女性がたった一人でその行動力を起こすことがどんなに難しく、また勇気が必要であることか。「#MeToo」のハッシュタグで勢いを増すこうした被害告発。事実確認は当然必要なことだが、今まで長年心の中に閉まって苦しんでいた人がその苦しみを吐き出すことができるようになっただけでもそれは救いなのかもしれない。

これはもちろん音楽業界だけでなく、全ての分野で共通の認識を待たなければならない問題だ。しかし芸術や文化が、音楽が人間の崇高な観念の表出であると考えるならば、こうした弱い立場の人間を救うものでなければならない、と私は思う。それを体現する人間がその尊厳を踏みにじるような行動を取っていることが事実ならば、それを賛美することで傷つく人間がいるということを忘れてはならない。江川紹子氏の言うように受け入れることを拒否する勇気が必要だと思う。

最後に人間の崇高な理想を掲げた一曲をここで挙げておこう。言うまでもなく、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」である。ドイツの詩人フリードリヒ・フォン・シラーの『歓喜に寄す』の詩による自由を謳った内容にベートーヴェンが感銘を受けて第9番の交響曲の終楽章の原詩としたことは有名である。ベートーヴェンがこれを楽曲にしようと思い立ったのはまだ20代の頃だったという。しかし後年難聴という作曲家として致命的な病気を患い、絶望の淵に立たされながらも不屈の精神で作曲活動を続けた彼の理想が結実した最高傑作である。日本では年末といえばこの第九を聴く、という風習があるが、本来この曲は何度も軽々しく演奏されるものではなく、欧米では演奏の機会も日本ほどは多くないという。それだけ重い意味のある音楽なのだ。しかし敢えてこの今年最後のコラムにこの曲を聴いて締め括りたい。

icon-youtube-play ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調Op125「合唱」第4楽章

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