RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。クラシック音楽ソフトのバイヤー時代にラジオにも出演。その後に制作会社を経て、現在はフリーのラジオディレクターとして番組の企画制作に携わる。番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど幅広く活動中。
ラジオディレクターの私にとって月末は繁忙期。収録が立て続けにあるため、編集、納品と次々片付けていかないとどんどん仕事が山積みになってしまう。こうなると必然的に在宅というわけにはいかず、毎日スタジオに入り浸るようになる。それでもコロナ以降、基本的に月曜日は在宅することにしている。丸一日家でのんびりできる日は少ないが、リモートワークは肉体的には身体を休めることができるのでありがたい。
2月に入った月曜日、ようやく一日家にいることができると思っていたのだが、その日は年に一度のピアノの調律の予定になっていた。調律師が部屋に入るのでやはり片付けをしないといけない。何しろ月末でほとんど家の中のことを放棄していたので、特にピアノを置いている部屋は事務所と化しており、本やCDや紙資料が散らばっている。そんな中、ピアノは無残にも埃だらけになっていた。埃を吹きながら年に一度ピアノに対して懺悔する日でもある。
午前10時ぴったりに調律師がやってきた。前日の夜も遅くまでゴソゴソ片付けをしていた私は化粧もろくにしないで玄関のドアを開ける。マスクというものはこういう時非常に便利ではある。
Mさんには3年くらい前から調律をお願いしていて、純粋な日本人なのだが名前がフランス人みたいなので、定期的にやってくる調律のお知らせ葉書はインパクト大である。しかもその名前に漢字の「音」という字が入っているので、まさに調律師になるために生まれてきたような人だ。聞けば名付けたご両親がやはり音楽をやっているとのこと。コロナ禍で調律を断る人もいるらしく、幾分仕事が少なくなっている、とこぼした。でも逆に在宅が増えることでピアノは売れているそうだ。そんな世間話をしたところでMさんはピアノの蓋を開け、作業にとりかかった。
ピアノ調律
相変わらず住宅地のマンションのインターネット回線は重い。一時間半ほど調律を行っている間、私は番組資料をまとめたり、メールを打ったり電話をしたりと滞っていた連絡事項をほぼ片付ける。そうこうするうち無事調律も終わり、Mさんは次の仕事場へ向かって行った。少し罪滅ぼしにピアノを弾いてみようかと思ったのだが、マンション内も在宅ワーカーが多いだろうし、ろくに練習もしていない状態でうるさい音を立てるのは近所迷惑かなぁ、などと思いあぐねて結局そのまま仕事を続ける。
新譜のハイレゾ音源を選んでいたのだが、めぼしい音源が見当たらない。そう思うのは自分がこのところ「クラシックど真ん中」といった音楽に少し距離を置いているせいだろうか。年明けに二度目の緊急事態宣言が出てからコンサートにほとんど出掛けていないのもあり、仕事以外でクラシック音楽と真正面に向き合う、という気概がちょっと薄れている。クラシック音楽は聴くのに集中力が必要だ。それは時に精神的に消耗することがある。
せいぜい聴いていたのはイゴール・レヴィットの弾く「Peace Piece」とか。
イゴール・レヴィット(P)「Peace Piece」
はたまたくるりの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」とか。
くるり「ワールズエンド・スーパーノヴァ」
そんな状態でふと聴き入ったのが、ピーター・グレッグソンのバッハの無伴奏チェロ組曲のリコンポーズ。イギリスのチェリストで現代作曲家でもあるグレッグソンは既にソロアルバムを3枚発売していて、TVや映画音楽とも関わりが深い。いわゆるポストクラシカルと呼ばれる現代作曲家のマックス・リヒターやヨハン・ヨハンソンなどが彼のために曲を書いているが、彼自身もまたエド・シーランなどの著名なミュージシャンとも共演している、クロスオーバーなアーティストだ。
マックス・リヒターのヴィヴァルディの「四季」をリコンポーズした作品も記憶に新しいが、まさにこれもシンセサイザーとチェロの溶け合う響きがアンビエントな雰囲気。曖昧模糊なサウンドが、コロナ禍で幾分疲れた身体と耳に馴染んで心地良い。グレッグソンはバレエ音楽も書いているが、ポストクラシカルやミニマルミュージックは主張が強過ぎないので劇伴音楽としては非常に効果的で、適度なドラマ性を持ちムードを演出する。
「バッハ・リコンポーズド・バイ・ピーター・グレッグソン」
在宅で一日PCと向き合っているとどうしても身体が固まってしまう。寒くて外に出る気もなかったので、ふとバレエの動画を見ながらストレッチをする。月末の追い込みが祟ったのか、首から肩甲骨にかけて微かに疼痛がある。今でも整形外科でリハビリを行ってはいるのだが、なかなか完治しない。ゆっくりと呼吸しながら少しずつ筋肉を動かしていくと徐々に血液が身体に染み渡っていくのがわかる。
そういえばバレエもすっかりご無沙汰している。一昔前は毎週レッスンを受けていたものだが、生来身体が硬いので断念してしまった。せめて舞台を観られるといいのだが、それも少し先のことになるだろうか。
ストレッチを終え、チェロとシンセサイザーで奏でるバッハをBGMにソファーに身を沈めコーヒーを飲んでくつろぐ。冬のリモートワークの一日がそろそろ終わろうとしていた。
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