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アントネッロの『ミサ曲ロ短調』

YOKO SHIMIZU COLUMN


ラジオディレクター清水葉子コラム

清水葉子COLUMN
RADIO DIRECTOR 清水葉子

音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。

バッハの声楽曲でマタイ、ヨハネという二つの受難曲に匹敵する宗教的作品といえばミサ曲ロ短調である。

これまでの番組制作の中でも数々の名盤を紹介してきたが、私のお気に入りはニコラウス・アーノンクールの1986年の演奏。いわゆる古楽ブームの立役者である彼は、2016年に亡くなる前にはカリスマ指揮者としてモダンオーケストラでも活躍して存在感を示した。そしてオリジナル楽器のオーケストラ、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを設立し、ともに録音した楽曲は数知れない。その中でもこのミサ曲ロ短調を、私はそれこそ来る日も来る日も繰り返し聴き続けていた。宗教曲はマタイやヨハネもそうなのだが、何度も聴き返すループに入ってしまうことがあり、特にバッハ作品にはその持続性があって、どっぷり浸かりやすいところがある。2010年には来日してこの曲を取り上げているが、私は聴くことは叶わなかった。

icon-youtube-play アーノンクール指揮CMW&アルノルト・シェーンベルク合唱団

ミサ曲とは教会のミサの形式に則って演奏される音楽である。バッハはキリスト教徒といってもルター派だったので、カトリックの典礼であるミサの音楽を書いたことは音楽史上、一見辻褄が合わない。しかしそんなことを払拭してしまうくらい、このミサ曲ロ短調の荘厳な美しさは全てを超越してしまう。キリストの磔刑を描いた受難曲のように劇的なストーリー性はないものの、典礼のための音楽であり、祈りと形式が強調されていることから、より厳かに響いてくる。またバッハの人生の最後に作曲されていることからもその音楽の頂点として神格化され、崇められてきた作品でもある。

そんな名曲を日本を代表する古楽アンサンブル、アントネッロの演奏で、しかもオペラシティという都内でも有数の音響を持つホールで聴けるとあって、11月のその日、客席は沢山の人々で埋まっていた。ここでちょっと思うのは、アントネッロは音楽監督の濱田芳通さんの自由な感性に発露する音楽が真骨頂だ。バロック以前の音楽にはその自由度が高く、それが有機的に作用するけれど、バロック期の作品となるとある程度形式があり、そこに様々な忖度が生まれることはないだろうか。それでもヘンデルのようなある種の開放性を持つ作曲家ならば、それが多少許されるような気がするけれど、このバッハの最高傑作はその作曲の由来に謎も多く、あまりにアカデミックに研究され尽くされて何か侵しがたい壁のようなものがあるのではないか。…とはいえ、どのようにそれを濱田さんの豊かな発想のもとに乗り越えてくれるのか、とても楽しみでもあった。

アントネッロ定期公演第18回定期公演
アントネッロ定期公演第18回定期公演

小編成のオリジナルオーケストラと合唱。ここでオペラシティコンサートホールの音響が非常に重要になってくる。1階席と2階席、どちらを選ぶべきか悩んだ。通常合唱曲は2階席の方が響きのバランスがいい。特にシューボックス型のホールはその傾向が強い。しかし私は今回、楽器の細かい音色もよく聴きたかったので、敢えて1階席を選んだ。

アントネッロは普段本拠地の川口市のリリアホールで公演を行うことが多いが、近年はその人気ゆえ、都内の名だたるホールで演奏することが増えている。この夏には濱田さんのサントリー音楽芸術賞受賞という嬉しいニュースが舞い込み、記念コンサートとしてサントリーホールでの公演も行われた。私は番組収録日と重なってしまい、泣く泣くこの1日限りの公演を諦めたのだったが…。

メジャーになることで都心のアクセスのいい会場でのコンサートが増えることは、よりたくさんの人に素晴らしい演奏が届けられるということなので、それはとても喜ぶべきことだ。しかし私はリリアホールのクリアな空間での彼らのより親密な音楽作りがとても気に入っている。正直にいうと、楽しみな一方でこのオペラシティのあまりに豊潤な響きとアントネッロの音楽は少し相性が違うような気もしていた。

濱田芳通&アントネッロ
濱田芳通&アントネッロ

冒頭僅かだがピッチが揺らいでいたように感じたのはそのせいかもしれない。しかしそれも束の間で、ゆったりと大きくフレーズを歌わせる濱田さんの指揮には、祈りの音楽にふさわしい温かみがあった。それは徐々に盛り上がりをみせ、サンクトゥスで合唱の配置を少し変えた辺りから俄然音楽の膨らみが増した。そしてこの日のハイライトと言ってもいい、カウンターテナーの彌勒忠史さんの素晴らしいソロが歌われた頃には、会場の客席にいる全員がアントネッロの世界に息づく「ミサ曲ロ短調」に心奪われていた。

彌勒忠史
彌勒忠史

特に最後の「Dona nobis pacem(われらに平安を与えたまえ)」では、文字通り音型も上昇を続けるのだが、響きもぐんぐんと上に向かっていくのが目に見える気がした。オペラシティのホールの天井はまるで教会のように高く聳えていて、その先端がまさに天へと昇っていく光の道筋のようだった。1階席に座っていた私は殊更にその高さが感じられて、思わず天井を見上げた。そしてこのミサ曲の限りない美しさとバッハの懐の深さに包まれ、己の小さな存在感を再確認するような敬虔な気持ちになって最後の余韻に身を委ねた。

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