RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。クラシック音楽ソフトのバイヤー時代にラジオにも出演。その後に制作会社を経て、現在はフリーのラジオディレクターとして番組の企画制作に携わる。番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど幅広く活動中。
ウィズコロナ時代の人付き合いはなかなか微妙である。外食自体を躊躇する人がいるかと思えば、少人数であればさほど神経質にならない人もいる。同じ感覚を持ち合わせていればスムーズだが、そうでない場合、相手の考えは当然尊重するけれども、声を掛けづらくなったりすることも多いのではないだろうか。かくいう私は家族以外の人ともわりと食事を共にしている方だ。お酒も飲めないので大人数でワイワイするようなお店はもともとあまり行かないし、そういう意味では今までと同様に、落ち着いたお店でゆっくりと食事するシーンを楽しんでいる。
そんな時に友人の歌手、井筒香奈江さんにお声を掛けていただいて、故村井裕弥さんの奥様のまり子さんと3人で食事をご一緒することになった。オーディオ評論家の村井裕弥さんは2年前まで番組を担当させていただき、私が大変お世話になった方である。その前の週までお元気で仕事の連絡を取り合っていたのに、急にご病気で亡くなってしまったのは今でもちょっと信じられないのだが、以来そのご縁で奥様のまり子さんとも、お付き合いをさせていただいている。
村井さんご夫妻と昔から親しくされていたのが井筒香奈江さんで、番組のゲストにも何回か出演していただいた。もともとはインテリアデザイナーで、幼い頃にはヴァイオリンやバレエもやっていたという彼女。独特の深い歌声と拘りのレコーディングでオーディオ業界でも注目を集めていたが、最近ではダイレクトカッティングのアルバムも発売している話題のアーティストである。同世代でお酒が飲めないという共通点もあって、人気歌手である彼女とも親しくさせていただいている、いつも役得な私である。毎年村井さんの命日近くに3人で思い出話をするのが恒例になっていたのだが、今年はコロナ禍でもあり、それこそどうしたものか、と思いあぐねていたところだったので、井筒さんの連絡はとても嬉しかった。
井筒香奈江
村井家に向かう途中、下町を流れる小名木川の橋の真ん中で立ち止まった。ビルが並ぶ背景と、隅田川に注ぐ水門の先にある蒼白い雲。普段眺めている多摩川とはやはり異なる風景だ。そして昨年とは全く違う世界のこの状況にふと思いを馳せる。
1年振りの村井家。奥様のまり子さんにとっては三回忌も時間の区切りにはまだ足りないのだろう。村井さんが原稿を書いていたデスクも、凝ったオーディオ装置も、沢山のCDを収めた棚も何ひとつ変わっていない。それを見て少し切ない気分になる。オペラ好きだった村井さんらしく、壁一面に設えられたCD棚には幾多の作品が並んでいたが、その日私の目に止まったのはブリテンのオペラ全集だった。
先日、私は新国立劇場に主催公演としてはコロナ以降初のブリテンのオペラ「夏の夜の夢」を観てきたばかりだった。基になっている台本はご存知シェイクスピアの戯曲。音楽自体は不協和音も多用されているし、同名の劇音楽を作ったメンデルスゾーンの有名な作品に較べれば一般的な認知度は格段に低いのだが、シェイクスピアと同郷の作曲家であるブリテンが作ったこのオペラは、原作のテキストを忠実に使っていることもあり、物語と音楽のシンクロ二シティに驚く。夜の闇の中から聴こえてくるような冒頭の弦のグリッサンドが夢と現実世界の境界線の危うさを、少年合唱の美しいハーモニーが陶酔を生む。時にユーモラスなリズムを絡ませ、英国風の皮肉なニュアンスも含まれている。ファンタジックで甘いだけではない「大人のデザート」といった味わいの、初めて観たブリテンのオペラに一目で魅せられてしまった。コロナ禍ということで演出は当然変更を余儀なくされたようだ。実際にやや動きが単調だったのも、出演者も指揮者も変更が相次いだのは仕方ないことだが、その中でもブリテンのオペラを日本で生で観ることができるのは貴重なことではないか。芸術監督の大野和士氏のプロデューサーとしての審美眼には感服する。最も印象的だったのは妖精王オーベロン役のカウンターテナー、藤木大地。妖しさと厳かなムードの両方を兼ね備えていて、ブリテンの夢の世界にぴったりとはまっていた。
ブリテン:オペラ「夏の夜の夢」
そんな幻想的な舞台の記憶からふと我に帰ると、そろそろまり子さんが予約して下さった近所の和食屋さんに伺う時間となった。1年振りの再会を4人分の盃で乾杯をした。私と井筒さんはウーロン茶。まり子さんはビール、そして村井さんの席の前には日本酒。
今月はもうひとつブリテンのオペラ「カーリュー・リヴァー」が横須賀で上演される。これは能の「隅田川」を基にしている作品で、これも日本で上演されるのはとても珍しい。村井さんはよくご夫婦でオペラ鑑賞をされていた。今いらしたらきっとどちらの公演も観に行っていたことだろう。「カーリュー・リヴァー」は私も鑑賞の予定だが、能における川はしばしばあの世との関係性を示す。村井さんの三回忌を迎えた季節に観られるのもなんだか不思議な巡り合わせである。
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