
RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。
3月は日本において2つの大きな災害が起こった月として記憶されている。ひとつは30年前の地下鉄サリン事件。もうひとつは未曾有の自然災害、東日本大震災である。そのどちらにも音楽と関わる場面があった。
通勤時間帯の地下鉄で猛毒のサリンが撒かれ、多くの人が死傷した地下鉄サリン事件。オウム真理教による無差別テロは世界を震撼させたが、これはあくまで序章のつもりで、最終的には国をも乗っ取ろうという恐ろしいクーデターが計画されていたという。霞ヶ関という国の重要機関が集まる地下鉄の駅を狙ったのもそうした妄想の一部だった。
先日の3月20日、その日たまたま地下鉄日比谷線に乗って東銀座へ向かっていた私は霞ヶ関駅で電車が停車した時、思わず目を閉じた。30年前のその日は仕事が休みだったので、自宅にいてテレビから流れるニュースで事件を知った。私が出かけていれば事件現場にいた可能性も十分にあったのだ。それを思うと複雑な気持ちになる。
東銀座で降り、東劇でMETライブビューイングを久しぶりに鑑賞。ヴェルディのオペラ「アイーダ」が延長上映されていた。マイケル・メイヤーによる36年振りの新演出は、考古学者たちが遺跡発掘から発見した「アイーダ」の物語、という設定になっていて、幕間には壁画の映像などが映し出された。本編の基本的な時代設定は変わりなく、黄金に輝くエジプトの神殿の舞台美術や衣装などはアップデートされているが、さすが世界屈指のメトロポリタン歌劇場たる豪華絢爛さである。なんといっても壮麗な合唱が醍醐味のオペラだが、主役アイーダを演じるエンジェル・ブルーの渾身の歌声も素晴らしい。特に第3幕のアリアでは、自身の父親が亡くなった時のことを思い出しながら歌ったという。望郷と父への想いがオーヴァーラップして聴く者の心を震わせた。
METライブビューイング「アイーダ」より
望郷の想い—音楽に関わる人間としては、東日本大震災の当日に行われた新日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートを想起しないわけにはいかない。その時の様子はNHKのドキュメンタリー番組でも放送され、指揮者のダニエル・ハーディングや楽団員、来場した観客何人かへのインタビューなどでも知ることができる。先日、その再放送があった。楽団員の中には津波で甚大な被害を受けた大槌町に住む親戚を持つホルン奏者の大野雄太さんなど、東北地方に所縁のある人も多くいた。彼は鉄道がストップする中、親戚の無事を祈りながらひたすら歩き(時々に走り)、錦糸町にある会場のすみだトリフォニーホールへ向かった。地震が起きた午後2時46分。既にホールには準備を整える楽団員たちがほぼ揃っていたこと、指揮者も無事に会場に到着できたこと。これらの偶然は音楽を鳴らせ、という天の声だったのだろうか。
不安の中、集まったわずか100人の聴衆のために演奏された曲がマーラーの交響曲第5番だったというのも偶然にしてはまるで映画か小説のようだ。実際このドキュメンタリーに着想を得て描かれた藤田治さんの小説「あの日、マーラーが」を読むと、交響曲第5番が鮮やかに聴こえてくる。この交響曲の演奏時間は70分。第1楽章はファンファーレから重々しい葬送行進曲で始まり、第2楽章は怒りにも似た荒々しい感情が迸り、第3楽章では軽やかにホルンが活躍するスケルツォ、そして有名な第4楽章アダージェットでは甘く美しい弦楽器のメロディーが滴り落ちる。終楽章の第5楽章は一転して希望に満ち溢れた光で終わるこの運命の一曲に、ハーディングもオーケストラも聴衆も余震の中で必死に感覚を研ぎ澄ませていたことは、想像に難くない。東北への祈るような気持ちを思うと、こちらにも熱いものが込み上げてくる。ホルン奏者の大野さんの親戚は無事だったという。
このコンサートの開演決定がなされたのは会場の安全性が確保されたことと、新日本フィルがすみだトリフォニーホールという地元に根ざした場所で音楽活動を繰り広げていたこと、いくつかの条件が重なったからだが、正直、別のオーケストラだったら同じ判断はできなかったかもしれない。しかし究極の選択でコンサート開演を決めたことは、奇しくも音楽が人の心をひとつにすることの真実を証明した。死の影の恐怖に打ち勝つには、我を忘れるほどの集中力が必要だ。それは祈りであり、音楽でしかあり得ないのではないか。かつてタイタニック号が沈没した時に楽団員が最後まで演奏を続けた、という話も語り継がれているが、彼らは彼らの精神を落ち着かせるためにも演奏せずにはいられなかったからなのだと思う。
しかし一方で祈りが共有され「宗教」という形になることで、それが歪に形を変えればオウム真理教のような暴走を生むことにもなる。2つの大きな事件は我々に幾重にも違った側面を見せる。マーラーの5番を聴きながら私は今年も考えさせられるのである。
マーラー:交響曲第5番byダニエル・ハーディング指揮
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