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Dilemma

Column Feature Tweet Yoko Shimizu

クラシックを超えて〜映画『名もなき者』

YOKO SHIMIZU COLUMN


ラジオディレクター清水葉子コラム

清水葉子COLUMN
RADIO DIRECTOR 清水葉子

音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。

一応このコラムはクラシック音楽について書くことになっているのだが、今回は敢えてボブ・ディランについて書きたい。1941年に生まれたアメリカの偉大なるシンガーソングライター。強いメッセージ性のあるその歌詞と、今でもパフォーマンスを続ける存在感はもはや生きる伝説であり、グラミー賞やアカデミー賞をはじめ、2016年には歌手として初めてノーベル文学賞まで受賞したことで大変な話題になった。そんなボブ・ディランについて私が知っていることは実はそんなに多くない。しかしデビューから数年間の彼の才能が最も煌めく時期を描いた映画「名もなき者」を試写会で観て、漠然としていた彼のアーティストとしての真の姿を否が応でも見せつけられた。

ティモシー・シャラメが若き日のボブ・ディランを演じている。私にとっては彼が17歳で出演した映画「君の名前で僕を呼んで」でのみずみずしい演技がまだ記憶に新しい。素顔はさほど本人に似ているとも思えないのだが、若き日のディランの憂いのある表情や、歌もギターも吹き替えなのかと見紛うほどの腕前を披露していて、これには驚かされる。映画製作自体は世界中をCOVID-19が襲った時期に重なる。当然遅れに遅れたわけだが、この未曾有の事態はシャラメにとって伝説のアーティスト、ボブ・ディランを演じるための充分な準備期間となったようだ。もともと音楽性を備えていた彼は5年に渡る時間の中で、楽器の技術的な習得やヴォイス・トレーニング、楽曲についての探求などを重ね、次第にボブ・ディランの本質に迫っていった。監督のジェームズ・マンゴールドは彼を近くで見ていてその手応えを確信したという。確かにこの映画の肝はボブ・ディランの音楽に他ならない。その質量は冒頭から観客を圧倒的なインパクトで惹き込む。

ボブ・ディランは時代ととともに進化していくアーティストだ。特に1960年代は「政治の季節」で東西冷戦の頂点だった。キューバ危機や核戦争の恐怖がすぐそこまで迫り、世界に不安が渦巻く中、音楽のメッセージは人々を強く引き寄せ、その渦中の存在となったボブ・ディランはその若さと才能で一気にスターへの道を駆け上っていく。

病に倒れたシンガー、ウディ・ガスリーを敬愛し、ニューヨークへギター1本を持ちやって来た彼は、ガスリーの親友でやはり人気フォークシンガーのピート・シーガーに認められ、若手として注目を集めていたジョーン・バエズらとともにナイトクラブのステージに立つようになる。このピート・シーガーを演じる、エドワード・ノートンもいい味を出している。若きディランは公民権運動にも参加する女性、シルヴィ・ルッソと出会い、恋に落ちる。有名なアルバム「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」のジャケットにディランと腕を組んで歩く女性。実際にはスージー・ロトロという名前だが、エル・ファニングが演じるこのシルヴィとの写真が再現されている。

「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」再現ジャケット

しかし「ギャスライト」の夜のライブの後、ディランはジョーン・バエズとも結ばれる。音楽が一瞬にして二人の魂を電光石火のように結びつける様子は見ていて鳥肌が立った。こればかりは一般の恋人同士における倫理観は通用しないものだろう。こうして三人は複雑な恋愛関係を続けていく。

そして1965年7月25日、遂にディランはその進化を遂げる。一つのジャンルに囚われることを嫌う自由な精神を持つ彼は、意味深な歌詞とロックサウンドの新曲、あの「ライク・ア・ローリング・ストーン」をニューポートのステージで演奏する。それはフォークシンガーとしての決別であり、次の時代の音楽を切り拓こうとする新たなボブ・ディランの誕生でもあった。このシーンは映画のクライマックスだが、思わず熱いものが込み上げてくる。

ボブ・ディランは現役のミュージシャンとして活動を続けている。2023年の実に7年ぶりとなる来日公演では、チケットは5万円越え(!)でウィーン・フィルも真っ青の高額だったが、もちろん完売。熱心なファンらのブログによると会場でスマホを使うことは禁止、開演前のBGMもなく、ただ客席でディランの姿を待つばかりのファンの期待値は想像に難くない。そこへなんとクラシック音楽とともに登場。その曲はベートーヴェンの第九の第1楽章。ここでようやくクラシック音楽コラムの面目躍如である。私の勝手なイメージだが、革新性と強固なアイデンティティという点では、ボブ・ディランとベートーヴェンは相通じるところがあるような気がする。

icon-youtube-play ベートーヴェン:交響曲第9番byバーンスタイン指揮ウィーン・フィル

ボブ・ディランという孤高のアーティストを詳らかにした映画ではあるが、あくまでその人生の一部を描いたもので、細かく言えば時系列などに少し事実と異なるところがある。しかし私のようにボブ・ディランをぼんやりとしか知らなかった人間にも、その時代背景とともに彼の伝説的エピソードがパズルのように繋ぎ合わさって、唯一無二の音楽と共に完結する。1960年代という若者が熱かった時代の象徴としても彼は存在するのである。映画は2月28日公開。

icon-youtube-play 映画『名もなき者』特別映像より

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