RADIO DIRECTOR 清水葉子
フリーランス・ラジオディレクター。TOKYO FMの早朝の音楽番組「SYMPHONIA」、衛星デジタル音楽放送ミュージック・バードでクラシック音楽の番組を多数担当。「ニューディスク・ナビ」「24bitで聴くクラシック」など。趣味は料理と芸術鑑賞。最近はまっているのは筋トレ。(週1回更新予定)
普段あまり風邪をひかない体質の私だが、ひく時は急に喉が痛くなり、高熱が出て1日寝ていると翌日にはスッキリ、という後腐れのない風邪のひき方をする。しかも倒れるのは週末とか年末とか連休中とかなので、普段人には滅多なことでは体調を崩さない人、と思われているかもしれない。今回は平日に珍しくそのパターンで風邪をひいて実は今、自宅でこれを書いている。大人になると体温が低くなるせいか、高熱はあまり出さなくなってきたが、わりと最近まで比較的体温の高い体質の私は37度くらいでは平熱の範囲内、38度を超えると少し食欲が失せてくる、といった感覚。しかし去年だか一昨年だかインフルエンザにかかった時はさすがに39度の熱が出て、体の節々が痛み、ベッドに寝ていても頭がグラグラして、子供の頃、高熱で悪夢にうなされていたことが思い出されてきた。何か得体の知れない、ぐにゃぐにゃした風船のようなものがどんどん増幅して、その塊に追いかけられるような夢。
その感覚を思い出した時、その悪夢の正体はマーラーの音楽に似ているな、と思った。マーラーの音楽はいつも感覚に食い込んでくる感じがする。良くも悪くも肌に直接突き刺される感じだ。天国的に美しいメロディーが現れたかと思うと次の瞬間、低弦と金管楽器の不協和音から発せられる不安と苦悩に満ちたフレーズが登場する。それは複雑で病的でグロテスクでもある。天国と地獄の双方のうねりの中に体を預けて、この音楽の負の方向に完全にシンクロしてしまうと後はもう死ぬしかないんじゃないか、とさえ思う。
交響曲第2番ハ短調「復活」
今年の3月で東日本大震災が起きてから7年が過ぎた。7年前のその日、私はいつものようにラジオ局で仕事をしていた。その日は比較的早く仕事を終え、そろそろ次の予定先に向かおうか、というところだった。トイレから出た直後だったので、グラッという揺れを感じた時、一瞬自分が目眩を起こしたのかと錯覚した。しかしそれは紛れもなく地震だった。ガタガタとロッカーやパソコンラックが揺れ出し、今にも倒れるか、という感じだった。慌てて建物の外に逃げ出したが、これだけの人が周辺のビルの中で働いていたのか、と驚くほど大勢の人が皇居のお堀の外で人だかりを作っていた。しばらくすると消防車のサイレン音が通過していったが、今思えばそれはあの九段会館の崩落事故によるものだった。
建物の外でしばらく待機していたが、特にすることもないので仕事仲間と食料と水を買い出しにコンビニへ向かった。次第に東北で甚大な被害が起きていることが分かった。押し寄せる津波の映像。どす黒い瓦礫を含んだ海水はそのまま高熱に浮かされた意識の中にある得体の知れない恐怖と一体化した。交通機関はマヒし、その日収録を予定していた番組は多くをとりやめたり、生放送にパーソナリティーが来られない場合などに備えたり、地震の情報集めに職場全体が動き出した。何しろ始めは情報が少ない。ほぼ全員が初めての体験なので、何をどうしたらよいのか皆目見当が付かなかった。しかし直前に水と食料を買っておいたのは正解だった。その後コンビニの棚はすっかり空になってしまったからである。
私自身は収録も生放送もなかったので、すっかり棚から落ちて散乱していた局の8階にあるレコード室へCDを片付けにいったりしていた。ひとしきり片付けを終えた午後8時過ぎ、電車はまだ動いていなかったので仕方なく自宅へ向けて歩き出した。そんな事態になるとは夢にも思わなかったので、ヒールに袖の短い軽めのコート、といった出で立ちだった。半蔵門から国道246沿いに延々歩き続ける。車道は大渋滞。脇の歩道は見たこともないほどの大勢の人が同じように歩き続けていた。この未曾有の事態にまるで戦時下のようだな、と思ったのは少なからず両親や祖父母から戦争体験を聞かされて育ったからかもしれない。寒さと疲れが出始めた頃、歩道の脇の飲食店や病院、オフィスなどのドアにトイレや飲料水の提供や、スマホの電池が切れて情報がわからない人のために交通機関の情報の張り紙がされていた。日本中が災害に対して一つになろうとしている様子をひしひしと感じた。途中あまりの寒さに耐えかねて車道沿いのカレー屋に入った。その時の暖かい食べ物にありがたさを感じたのは言うまでもない。その時交通機関がようやく動き出した。
そこからすし詰めの電車に乗り、何とか自宅に着いたのは深夜零時過ぎだった。自宅の中は壁に立てかけていた鏡が倒れて割れていた他は特に被害もなかった。その間に東北で原発の想像を絶する被害があったことを知った。
この日のことは7年の間に様々な思いを日本人それぞれが抱えたことだろう。幾多の不安で暗い夜を過ごした人々。混乱と混迷の政治。そして絶望の中で差し伸べられた手に「音楽」というものがあったのも決して忘れてはならないだろう。絶望と希望が同居したマーラーの音楽は、ふとした瞬間に私にあの日のことを思い出させてならない。
交響曲第9番ニ長調
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