RADIO DIRECTOR 清水葉子
フリーランス・ラジオディレクター。TOKYO FMの早朝の音楽番組「SYMPHONIA」、衛星デジタル音楽放送ミュージック・バードでクラシック音楽の番組を多数担当。「ニューディスク・ナビ」「24bitで聴くクラシック」など。趣味は料理と芸術鑑賞。最近はまっているのは筋トレ。(週1回更新予定)
秋も深まる季節である。人生も半ばを過ぎるとそんな季節の黄昏に、いずれ訪れるであろう「死」について漠然と考えることも多くなる。いや、むしろ「死」そのものについて考えていたのは、そこからまだ遠いところにいた10代の頃だったかもしれない。番組を一緒にやっていた村井裕弥さんが亡くなったこともあるし、同級生が亡くなったり、友人の友人が闘病中だったり、またご両親の介護をしている親友もいる。そんな世代になってきた最近の自分が考えるのは、どちらかといえば「死」に至るまでの人生の記憶について、である。
先日出かけたのは合唱のコンサートだった。ベルリンRIAS室内合唱団は、今年70周年を迎えるドイツの歴史ある合唱団で、幅広いレパートリーを誇り、数々の著名な指揮者や団体とも共演を重ね、録音でもたくさんの名演を残している世界でも屈指の実力を持つ合唱団だ。その名門合唱団の東京オペラシティコンサートホールでのS席が破格の4千円。大勢の合唱ファンで客席は埋まっていた。バッハのカンタータや宗教曲をメインにしたプログラムは、やはりキリスト教の文化圏で育ってきたメンバーが多い、彼らの宗教観に基づく説得力というのがある。比類なきアンサンブルも素晴らしかったのだが、私が最も印象に残ったのは、アンコールで歌われた「朧月夜」だった。指揮者のジャスティン・ドイルが流暢な日本語で挨拶をしてから歌われたのだが、その出だしのハーモニーはまるで水彩画が滲むような美しさで息を呑んだ。始めは北欧の合唱曲か何かかと思った。やがて男声が親しみのあるメロディーを日本語で歌い出した時に、おそらく私だけでなく、聴いていた人全てが心を奪われたに違いない。「朧月夜」の民謡風のメロディーと文語調の歌詞で歌われる季節の風景は、ほとんどの人が小学校の頃から唱歌として歌っていたこともあるだろう。私達日本人にとって空気のように体に馴染む曲なのだ。
文部省唱歌「朧月夜」
その時に思い出したのが祖母のことだった。父方の祖母は音大の声楽科を出ていて、祖父母が住んでいた都内の古い家にはその昔、客間にピアノが置いてあった。そのピアノを弾きながらよくシューベルトの「アヴェ・マリア」を歌っていた彼女の横顔を思い出したのだ。当時小学生だった私は少し前からピアノを始めていて、徐々にいろいろな曲を弾けるようになってきたのが自分自身で楽しかった。祖母もそれを喜んでくれて、「何か弾いてちょうだい」と頼まれて彼女の前でピアノを弾くことも多かった。
シューベルト:アヴェ・マリア
その祖母は22年前に84歳で世を去ったのだが、亡くなる前には老人性の認知症を患い、最後には私のこともわからなくなっていた。家族と一緒に暮らしていたが、いつも自分の家に帰る、と言って日が傾く時刻になると家を出て行こうとした。そんな祖母を引き止めるのに私がよく使ったのが音楽を聴かせる、という方法だった。特に歌のCDを聴かせてあげると彼女は一瞬正気を取り戻し、笑顔になって一緒に歌を口ずさんだ。
先日テレビでドキュメンタリー番組を観た。やはり認知症を患う妻を介護する男性の生活を追ったものだった。家族の中で彼女が唯一覚えているのが夫であるその男性だ。しかしやがて最後の枯葉が落ちるように、その夫の名前も口にできなくなってしまう。それでも男性は愛する妻の介護を続ける。自分の名前を呼んでくれたかつての妻と、今自分の手助けがなければ何もできない妻。しかしそのどちらも彼女という同じ人間なのだ。その時に思った。忘れ去られるということの寂しさと辛さ、そして残酷さを。
萩尾望都の漫画『トーマの心臓』の中に「人は二度死ぬという。一つは肉体としての死。もう一つは人に忘れ去られるということの死」という台詞がある。今の記憶が20年後、30年後に私の中に残っているだろうか? 残っていなかったとしたら……それは私の死ということなのかもしれない。
テレビのドキュメンタリーはその妻へラブレターを書く、という形で男性の気持ちが語られていた。その時に流れていたピーター・ガブリエルの「The Book of Love」を聴いてたまらない気持ちになった。単独で聴いてもそんなに印象深いという認識ではなかったこの曲。こうして彼の気持ちと、シチュエーションが音楽と重なった時にそれは深い意味を持つものとして私の耳に届いた。音楽は得てしてこのような不思議があるのだ。映画の中の音楽が然り、番組の中の音楽も然り。物語や記憶、感情の中に甦る時、それは私達にとって忘れがたいものになる。
Peter Gabriel:The Book of Love
そんな人の気持ちに寄り添うことのできる音楽というものの素晴らしさを思い、またそれを届けることができる立場にいることを幸せに思いながら、これを書いている。人生何が起きるかわからないけれど、私自身の「死」はまだ少し先にあるはずだ。だとしたら愛する人の死に直面する日が先にくるだろう。
……その時に私は何を思い、何を聴くのだろうか。
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