RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。クラシック音楽ソフトのバイヤー時代にラジオにも出演。その後に制作会社を経て、現在はフリーのラジオディレクターとして番組の企画制作に携わる。番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど幅広く活動中。
長かった緊急事態宣言が明け、ゆっくりとではあるがようやく世の中が動き出した感じだ。
この間に一番活動を制限されたのがやはり声を使ったエンタテインメントだろう。クラシック音楽の世界ではとりわけオペラを見る機会が少なくなってしまった。それでも国内のオペラ公演は少ないながらも開催されていて、それなりに素晴らしい舞台もあったのだが、やはり海外の名門オペラハウスの絢爛豪華な舞台を観られないのは寂しいものがあった。一時期コロナ感染が最悪だったニューヨークのメトロポリタン・オペラも早々に休演に追い込まれ、日本では松竹が配給をしていたライブビューイングもストップしてしまった。しばらくするとアーカイヴのような形で過去の公演の上映もしていたが、日本の感染状況も一時期はかなり悪かったので、なかなか足を運ぶ機会がなかった。
そんな時にあのウィーン国立歌劇場の公演がライブビューイング上映されるというニュースを知った。しかもアンナ・ネトレプコと実の夫ユシフ・エイヴァゾフが主役を演じるプッチーニの名作オペラ「トスカ」である。私は久しぶりに築地の東劇へ出掛けることにした。
ウィーン国立歌劇場2020inCINEMA〈トスカ〉予告編
「トスカ」はこの上なく見せ場の多いドラマティックなオペラである。
舞台は1800年のローマ。歌姫トスカの恋人は画家の青年カヴァラドッシ。彼が教会で絵を描いていると政治犯であるアンジェロッティが脱獄して逃げ込んでくる。カヴァラドッシは彼を匿うことで悪徳警視総監スカルピアに逮捕されてしまう。拷問を受ける恋人の命と引き換えに、スカルピアから身体を要求されるトスカ。板挟みになりながらも偽りの処刑と国外への通行手形を書かせ、隙を見てスカルピアをナイフで刺し殺す。しかし結局カヴァラドッシは本当に処刑されてしまい、警視総監殺害も発覚したトスカは絶望して自ら身を投げるーー。
ストーリー全体に嫉妬、拷問、脅迫、殺人、裏切り、絶望、といった負の要素が満載で、当時マーラーなどはこの作品に否定的な意見を持っていたようだが、聴衆は熱狂したと言う。そこにあるたった一つの真実は悲劇の愛。歌われるのはプッチーニ特有の美しいメロディーによるアリアの数々だ。トスカがスカルピアに恋人の命と引き換えに体を求められ苦悩して歌う「歌に生き、恋に生き」、カヴァラドッシが処刑前に恋人トスカを思って歌う「星は光りぬ」などは歴代の名歌手たちが歌い継いできた。また教会の場面で歌われるカンタータやオルガン、鐘の音、兵隊たちによる銃砲の音なども重厚なドラマをよりリアルに彩る。オペラ史上に残る名作といわれる所以である。
「歌に生き、恋に生き」byマリア・カラス
マルガレーテ・ヴァルマンの演出は1958年以来上演されてきた王道のプロダクション。今回ネトレプコの「トスカ」は、登場シーンで「マリオ、マリオ」と呼び掛ける声自体がとても低くなっているのに少々驚く。近年、彼女の声はデビュー当時の声質よりかなり重くなっており、その姿も貫禄たっぷりで、ヴェルディのマクベス夫人のような役柄がはまっている。恋人を想う一途な歌姫という側面もあるトスカの役柄だが、それをそのまま極悪非道なスカルピアに煥然と反抗する、より強い意志を持つ女性トスカへと役作りを変換させてしまうのは、まさに「歌う女優」と称されるネトレプコならではの力量と言えるだろう。共演する夫のエイヴァゾフも、序盤はやや粗い感じもあり、正義と自由を愛する若々しいカラヴァドッシ像とはかけ離れた印象だったのだが、ドラマが進んでくると抑えた演技と切ない深い歌声がむしろ切々とした男の心情を存分に訴えかけてくる。現実でも夫婦である二人というのが、悲劇的な結末というよりは盤石な愛情で結ばれた恋人同士ということを強調しているようにも思えた。
特筆するべきはベルトラン・ド・ビリーの指揮が伝統あるウィーン国立歌劇場のオーケストラを力強く、且つバランス良く鳴らしていたこと。プッチーニの傑作として聴きどころも多いこの「トスカ」だが、ウィーン独特の艶のある管楽器の響き、言わずもがな弦楽器の絹のような音。それらが時にドラマティックに、時にメランコリックに、メリハリある音楽の襞を感じさせて実に見事だった。
ベルトラン・ド・ビリー(指揮)とウィーン少年合唱団
映画としては日本初となったウィーン国立歌劇場のライブビューイング。幕間インタビューやトークがあるMETのそれよりシンプルな作り。それもそのはずコロナ禍で行われた2020年12月の公演は無観客だったようで、ホワイエに人の賑わいはない。オープニングは歌劇場の中央客席からのアングルで舞台が映され、画面では幕ごとに簡単なあらすじが字幕で表示される。かなりのアップ映像もあり、細かい小道具などもわかりやすいカメラワークだと思った。
私の脳裏には20年近く前、雪が降り積もる真冬のウィーンが甦った。当時ここでモーツァルトのオペラ「魔笛」を鑑賞した。黄金に輝くシャンデリアと白亜の階段が煌き、赤いビロードの扉と座席に夢見心地で聴いたのを覚えている。その頃と変わらず荘厳で美しい劇場がそこにはあった。
ウィーン国立歌劇場2021/22
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