
RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。クラシック音楽ソフトのバイヤー時代にラジオにも出演。その後に制作会社を経て、現在はフリーのラジオディレクターとして番組の企画制作に携わる。番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど幅広く活動中。
今年は5年に一度のショパンコンクールの開催年。少し前まで音楽界の話題はほぼそれ一色だった。当然このコラムでも取り上げて然るべきだったのだが、YouTubeやSNSなどリアルタイムでアップされる情報や動画などを私は殆ど見聴きしていなかった。番組制作が繁忙期ということもあったが、正直あまり興味がなかったと言っても差し支えない。近年のコンクール熱は少々過剰な気がしている。既にリサイタルを行ったりCDも発売している著名なピアニストがコンクールに挑戦するという、いささかビジネス戦略めいた感じも違和感があるし、そもそもその様子を実況中継するみたいな形はスポーツのようだ。それだけにメディアにも取り上げられやすく、一般の人には非常にわかりやすいのかもしれないが、コンクールはあくまで新人の登竜門であり、それは彼らの長い音楽人生のスタート地点に過ぎない。
しかしそうしたコンクール出場者の中からスターが育ってくるのも事実だ。アルゲリッチやポリーニ 、内田光子などはレジェンドとして語られ、先頃引退を発表したアシュケナージ、来日も多いツィメルマンなどもショパンコンクールが生んだ代表的なピアニストである。1927年から続いてきたこの伝統あるコンクールの中で、初期の入賞者といえば国の威信をかけて挑戦してくるソ連勢と地元ポーランドが圧倒的に多かった。現在では出場者の大半がアジア勢。時代の流れとともに国の顔触れも変わっている。今年は日本人の反田恭平と小林愛美が入賞し、大きなニュースとなった。
反田恭平
私にとっては当時19歳で優勝したスタニスラフ・ブーニンがなんと言っても印象深い。ギレリスやリヒテルを育てた巨匠ネイガウスの孫というのも相まって日本はブーニン・ブームに沸いた。来日コンサートではプレイガイドに電話をかけまくってチケットを取った。この年の入賞者は個性豊かで現在でも第一線で活躍するピアニストが多い。ちなみに第4位は小山実稚恵である。
スタニスラフ・ブーニン
直後にソ連にはもっとすごい天才少年がいる、と新聞で大きく紹介されていたのが他ならぬエフゲニー・キーシンである。当時14、5歳だったキーシンはあどけない少年だった。彼はコンクール歴を持たない。出場する年齢に達する前に既にピアニストとして華々しく活躍を開始していたからである。それから35年。キーシンは今や押しも押されもせぬ名ピアニストとしてもはや巨匠の風格を漂わせている。私も仕事柄その時々に発表される彼の録音物を聴いてきたが、決して手当たり次第といった感じはない。じっくりと取り組んできたのが、現在の彼の堂々とした演奏スタイルを確立したとも言えるのだろう。
そんなキーシンが来日するという。まだ世界はコロナ禍ではあるものの、ソリストは来日が実現することが多くなってきた。この秋、番組でキーシンの演奏を取り上げた矢先でもあり、その演奏の魅力に改めてライヴで触れたみたくなり、東京オペラシティでのコンサートに向かった。プログラムを見ると今回の来日は川崎をスタートに所沢、大阪、東京オペラシティ、更に名古屋、また戻って最後はサントリーホール。3、4日インターバルはあるものの、東西を行き来するハードスケジュール。しかも移動半ばの日に当たるがコンディション的にはどうだろうか。
ホールに響いた第一音は少々「重い」という印象だった。曲がタウジッヒ編曲によるバッハの「トッカータとフーガ」で始まったというのもあるが、その後のモーツァルトのアダージョK540も、ベートーヴェンのOp110のソナタも、 遅めのテンポとタッチ、そしてドイツ・オーストリア王道のレパートリーとキーシンのロシア的なピアニズムががっぷり四つな感じで、重量級なのは否めない。
近年はピリオド楽器演奏も多く、どこか「軽さ」を良しとする傾向がある。それに耳が慣れているのか、或いはさすがのキーシンも少しお疲れ気味?と思ったが後半のショパン。マズルカはショパンの故郷ポーランドの民俗色豊かな舞曲の様式による小曲だが、この舞曲特有のテンポの揺れがキーシンのロマンティシズムにぴったりと嵌った。すると演奏に軽やかさが出て呼吸する音楽となる。しかしなんと言っても素晴らしかったのはラストの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」だ。これを聴けただけでも今日コンサートに来た意味は十二分にあったとさえ思った。煌びやかなパッセージと勇壮なポロネーズのリズム、芯を捉えたフォルテの和音も完璧だった。キーシンはやはりロマン派が絶品だ。
アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ
客席には私と同世代の人も多かったように思う。キーシンのピアニストとしての足跡をほぼリアルタイムで追いかけてきた世代。ピアノを弾く者ならこの夜のキーシンのようにショパンを奏でてみたい、と誰もが憧れずにはいられない華麗で荘厳なピアニズムに酔った。
近年は作曲家としての顔も持つキーシン。今回の来日では本人は演奏しないものの、作曲者として立ち会いの元にその作品を披露するコンサートも行われる。
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