RADIO DIRECTOR 清水葉子
フリーランス・ラジオディレクター。TOKYO FMの早朝の音楽番組「SYMPHONIA」、衛星デジタル音楽放送ミュージック・バードでクラシック音楽の番組を多数担当。「ニューディスク・ナビ」「24bitで聴くクラシック」など。趣味は料理と芸術鑑賞。最近はまっているのは筋トレ。(週1回更新予定)
バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータと言えば、ヴァイオリンのソロ作品の中でも音楽史上最高の傑作であることは疑いようがない。
バッハ/無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調第4楽章byカール・ズスケ(Vn)
しかし先日出かけたコンサートはその全曲に、あのシューマンが伴奏譜を書いたバージョンということだった。フォルテピアノは歴史的な銘器シュトライヒャーでもあり、非常に興味をひかれた。しかし全曲を演奏するだけでも時間も長く、かなりのエネルギーを要するのに、伴奏付きで一度に演奏するとは、奏者にとっては相当に大変なコンサートなのは言うまでもないだろう。
シュトライヒャーのフォルテピアノby小倉貴久子
東京文化会館小ホールでのそのコンサートはモダンとバロックどちらの楽器も弾きこなし、時にヴィオラ奏者としても活動するヴァイオリ二ストの桐山建志さん。フォルテピアノは小倉貴久子さんという実力派の二人である。当日会場に着くと、プログラムには休憩が10分ずつ2回と書いてあった。確かに18時半開演も通常のコンサートより早めの設定だが、集中力を持続するのも難しそうだ。実を言うと私自身もその日は早朝から編集や納品をこなし、長時間の収録もあったので、集中できるのか甚だ不安であった。
桐山建志(Vn)
プログラムに桐山さん自身が解説を寄せていたが、今の私達から見ると、バッハの無伴奏作品に伴奏を付けるのは少々突飛なことのように感じるが、ロマン派の時代にはバロック時代などの譜面は不完全と考えられていて伴奏譜を作るのは比較的よく行われていたようだ。ここで聴くシューマン以外にもメンデルスゾーンも同様に伴奏譜を書いていたとか。そういえば、バロックではないがモーツァルトのハ長調のピアノソナタにもグリーグが2台ピアノ用に編曲した版がある。リヒテルとレオンスカヤの音源があるが、私は意外とこれが気に入っている。第2ピアノがオブリガートのように奏でられるのだが、それがいかにもグリーグ節で思わずクスッと微笑んでしまう。しかし一般的にはどうも敬遠されているようなのだ。さて、今夜のバッハをシューマンはどう料理しているのだろうか。
モーツァルト/ピアノソナタ ハ長調K545第1楽章byレオンスカヤ&リヒテル(P-duo)
演奏は順番に1番から3番のソナタ、パルティータと続く。最初の1番は実を言うと、ああ、やっぱりさすがのシューマンも伴奏付きと言ってもこのくらいしかやることないよね、という感じだった。和音の構成はいかにもシューマンらしさが漂うところもあったが、バッハの音楽があまりに完成されているのである。それにちょっとヴァイオリンの音域に伴奏が被ってしまって、本来のバッハの楽曲のイメージが強いせいもあり、正直やっぱり伴奏はいらないな、などと考えてしまった。
しかし2番のソナタあたりから徐々におっと思わせる音型が聴こえてきた。伴奏のある音世界に耳が慣れてきたこともあるのか、或いは少々座席に空席があったので、1回目の休憩の後、ヴァイオリンの音がよく響く舞台上手側に移動したせいなのか、音のバランスも良い気がした。注目はやはりシャコンヌだ。伴奏付きと言っても出だしはやはりヴァイオリンのみ。冒頭のフレーズ2回目のところでようやくフォルテピアノが登場する。シューマン、やはりさすがだな、と思う。ヴァイオリンのようなソロ楽器の無伴奏作品は和声が未定の部分も多い。しかし伴奏が入ることで和声が決定する。すると確かに耳で聴いてイメージしていた和声と違うこともある。シューマンにはこう聴こえていたのか、という新鮮な驚きがあった。それはロマン派の時代的な感覚もあるだろう。途中、ニ短調からニ長調に転調するあたりが個人的には白眉だったと思う。これはもういわゆるヴァイオリンとフォルテピアノのためのソナタ、といって過言ではない。シューマンの導く和声進行はピアノソナタやピアノ五重奏曲などを彷彿とさせた。そして最後のDの音は或いはピカルディーの三度にすることもできたと思うが短調に終わった。この未知の世界に対するわくわく感を聴き慣れたバッハの作品で味わえるとは!
バッハ/無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番よりシャコンヌ
3番も伴奏に踏み込んだ工夫がみられてとても面白かった。もはや最初に伴奏はいらないな、などと思っていた自分はどこかへ消えていた。バッハの無伴奏ヴァイオリン作品は完成され過ぎて手が出せない、という思い込み。しかしバッハはどこまでも完成されていると同時にどこまでも懐の深い音楽なのだ。そしてそれに果敢に挑戦した二人の奏者にも敬意を表したい。特にヴァイオリンはソロで弾くのと同じ感覚で弾いていたのでは当然だめで、テンポもフレーズも全く別の曲として弾かなくてはならない。何しろ(ここを強調してしまうが)、3番全曲を1日でやるのだからあっぱれである。
残念だったのはこんなに素晴らしいコンサートなのに会場にはあまり人が入っていなかったことである。逆に言えば私は得をした気分でもあった。それにしても最後に笑いながら「アンコールはございません」と話した桐山さんだったが、それも当然であろう。
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