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Dilemma

Column Feature Tweet Yoko Shimizu

パンデミックの夜に

YOKO SHIMIZU COLUMN


ラジオディレクター清水葉子コラム

清水葉子COLUMN
RADIO DIRECTOR 清水葉子

音大卒業後、大手楽器店に就職。クラシック音楽ソフトのバイヤー時代にラジオにも出演。その後に制作会社を経て、現在はフリーのラジオディレクターとして番組の企画制作に携わる。番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど幅広く活動中。

思えば2月の半ばにコロナウィルスの影響が囁かれた頃、中国からの観光客が少なくなった京都に弾丸旅行した時はまだ平和だった。それからあれよあれよと言う間にヨーロッパ、アメリカでの感染者が激増、世界は一瞬にしてパンデミックとなった。今、日本も水際で踏ん張っているが、東京がいつロックダウンとなるか、という瀬戸際である。

このような状況なのでエンターテイメントやイベント関係は軒並み中止になってしまった。私も含めて当初は3月いっぱい踏ん張れば4月からは……と考えていた人も多かったと思うが、どうやらそれは見通しが甘かったようだ。毎年お花見の季節に合わせて出掛けていた靖国神社の夜桜能、楽しみにしていたトッパンホールのラインナップも、スターの共演アルゲリッチ&クレーメルのデュオや、ムーティの「マクベス」演奏会形式が目玉だった東京・春・音楽祭も、昨年圧倒的な演奏を聴かせてくれたクルレンツィス&ムジカエテルナも公演中止となった。ちらほらと5月の予定も危うくなっている。ゴールデンウィークの風物詩でもあるラ・フォルジュルネ・オ・ジャポンもとうとう中止を決定。これに関しては既に紹介番組も制作していたりして少なからず私達にも影響があったのだが、オリンピックも延期となるなど未曾有の事態である。

icon-youtube-play ヴェルディ:歌劇「マクベス」前奏曲

icon-youtube-play チャイコフスキー:交響曲第5番byムジカエテルナ

クラシック音楽の世界もこれだけコンサートの中止が続けば当然フリーランスで活動している人も多い演奏家、また特に民間のオーケストラ事務局、小規模な音楽事務所、またそれぞれに仕事で関わっている人達も収入が途絶えてしまう。これらフリーランスへの補償問題もなかなか進まない中、全く先が見えない不安な日々が続いている。

そんなバタバタと公演の取り止めが続く中、オペラシティコンサートホールでの公演を敢行したアーティストがいた。ハンガリー出身のピアニスト、サー・アンドラーシュ・シフである。1953年生まれ。かつてはハンガリーの三羽烏と呼ばれ、ゾルターン・コチシュ、デジュ・ラーンキらと共に俊英ピアニストとして注目を浴びた彼も2014年にエリザベス女王よりナイトの爵位を叙勲され、今ではすっかり大御所となり、ますますその芸術に磨きをかけている。少し前の話で恐縮なのだが、実際に聴くことができた数少ないコンサートとして今回はこれについて書きたいと思う。

この年度末は本来ならばコンサートの予定をたくさん入れていたので、実はシフのコンサートに行く予定はなかったのだが、どんどんスケジュールが白紙になってしまったので、19日木曜日のプログラムBの当日券を直前に購入したのである。もちろん主催者側も細心の注意を払っており、マスク着用での来場の要請、ホワイエでの歓談は自粛するように案内したり、バーコーナー、プログラムやCD 販売もなし。こうした物販なども貴重な収入源なのだから苦渋の決断だったであろうことは想像に難くない。チケットのもぎりもせず、目視するという徹底振りだった。またホールの手摺りや肘掛けなどは可能な限りスタッフがアルコールで拭ったという。そんな話を聞くと頭が下がる思いである。こちらも出来る限りこまめに手を洗ってアルコール消毒し、もちろんマスクを着用して出掛け、アナウンス通り休憩時もトイレ以外は極力動き回らずに過ごした。

久し振りのコンサートホールはそんな物々しい雰囲気ではあったが、どこかほっとする部分もあった。人々が音楽を求めて同じ空間で演奏を楽しむ、という日常の中にあったことが出来なくなってしまったことが、こんなにもぽっかりと心に穴を開けてしまうことなのか、と改めて感じ入った。他のお客さんも皆一様にマスクをしていたので表情はわからないが、きっと同じ思いだったに違いない。

演奏がまたこのような状況で聴くのにまさに相応しいものだった。シフはとても温かな音を持っているピアニストなのだ。シューマンの「精霊の主題による変奏曲」の始めの音が鳴った瞬間、乾いた大地に水が沁みていくような感覚を覚えた。そしてブラームスの滋味溢れるOp117の間奏曲、そっと寄り添うモーツァルトのイ短調のロンド、そして祈りのバッハは平均律クラヴィーア曲集第1巻から第24番ロ短調の前奏曲とフーガ、ラストの渾身の力強いメッセージでもあったベートーヴェンの「告別」ソナタ。そのプログラムの流れは傷ついた世界を癒し、慈しみ、祈り、勇気づけるストーリーが見事に作られていた。音楽がもたらす福音と幸福。それは血の通った温かさでじんわりと体の中に伝わってくる。

icon-youtube-play アンドラーシュ・シフ

冷静に言ってしまえば比較的ペダルを多用する彼のピアノに好き嫌いが別れるところがあるかもしれない。シフに限らず演奏についてあれこれ評論したり、注文を付けたりすることはいくらでもできるだろう。

しかし本当は今、この時こそ音楽は人間の心に必要なのだと思わされたコンサートだった。

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