RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。クラシック音楽ソフトのバイヤー時代にラジオにも出演。その後に制作会社を経て、現在はフリーのラジオディレクターとして番組の企画制作に携わる。番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど幅広く活動中。
今話題の映画「TENET」を観た。冒頭から凄まじい勢いでストーリーが展開していくのだが、始まりはキエフのオペラハウス。そこでテロリストが舞台上に現れ、オーケストラの中に乱入し、楽器を叩きつけ人々を殺傷するシーンは音楽に携わる立場の人間としてはかなり恐怖で衝撃的だった。始まりと書いたが、時間軸を逆行するという手法のこの映画ではこれが始まりなのかどうなのかは、どんどん判然としなくなってくる。その時系列を頭の中で整理しながら観続けるのはなかなか難解でもあるのだが、それを差し置いても非常に面白い。映画の中で重要人物となるのは武器商人の妻である女性。彼女が捕われている理由は最愛の息子の存在による。
映画「TENET」
さて、ここからは能とオペラの話である。母親が子を想う心が軸となっている物語は古今東西たくさん存在するが、私が横須賀で観た能の「隅田川」と、それに触発されてブリテンが書いたというオペラ「カーリュー・リヴァー」はまさにその悲劇を舞台にしたものである。
能とオペラの連続上演「幻(GEN)」と題されたこの興味深い企画。どちらもコロナ禍における取り組みとしては難しい部分も少なくない。しかし横須賀芸術劇場では日本でも珍しい馬蹄形のオペラハウス仕様の大ホールを備え、その素晴らしい会場にふさわしい企画をこれまでにも多く実現してきた。2005年から行なっている〈よこすか能〉では観世流シテ方の観世喜正のプロデュースで、そして〈オペラ宅配便シリーズ〉では声楽家でもあり、最近では演出家としても活躍する弥勒忠史が企画、演出を行なっている。今回の公演もこの両者がタッグを組み、ジャズ発祥の跡地でもあるこの場所での、東西の芸術文化のコラボレーションという企画は、特筆に値する素晴らしいものだと思う。ブリテンの「カーリュー・リヴァー」を生の上演で観劇できるというのも数少ない機会である。
「隅田川」×「カーリュー・リヴァー」連続上演「幻」プレトーク
個人的には夫の実家が横須賀にある関係で、毎年新年には必ず訪れる土地ではあるのだが、実を言うと横須賀芸術劇場に足を踏み入れるのは初めてだった。京浜急行の汐入の駅からすぐ。都内からだと多少乗り継ぎはあるが、駅からのアクセスは非常に便利である。
まずは能「隅田川」から始まった。能舞台を通常の舞台上に作っているので橋掛かりがやや短い。しかし篝火が置かれた舞台演出はまさしく「幻」のタイトル通り、幽玄の世界がより強調される趣があった。しかしながらホールなので音響も非常に良く、地謡や太鼓の音色が鳴り響いて、能楽堂の凝縮された空間とはまた違った雰囲気だ。プログラムにある観世喜正自身の解説によると、能の演目には生き別れた親子の物語がいくつかあり、「百萬」「桜川」「三井寺」などは最後に親子が再会を果たしハッピーエンドとなるが、この「隅田川」だけが息子は亡くなってしまい、再会を果たせずに悲劇に終わっている。結末となる部分で亡くなった梅若丸が「南無阿弥陀仏」と幼い声を発すると、もはやこの世では息子を抱きしめることが叶わない母親の悲しみに、観ている私達までもが心をえぐられる思いがする。演者が舞台を去ってゆく独特の最後の余韻が暗闇の中に静かに横たわり、「隅田川」が終わる。
能「隅田川」
45分の休憩を経てオペラ「カーリュー・リヴァー」の上演。大枠の舞台装置はそのままに十字架をメインに様式化したシンプルな演出に仕上げたのは、勿論新型コロナウィルス対策を考えてのことだったと思うが、それが能との違いを際立たせるというよりも、むしろテーマに共通性を多く含んだ作品という認識を私たちに提示していた。しかし圧倒的な違いはやはり音楽のスタイルの違いだろうか。フルートやホルン、オルガンといった小編成の楽器群ではあるけれども、それぞれの音色が性格的な要素となり、その響きはストーリーの中で効果的にドラマとしての彩りを添えて、より劇的な起承転結を成り立たせていた。演奏はフルートの上野星矢、オルガンの鈴木優人などソロでも活躍する一流奏者ばかりというのも大きなポイントだっただろう。キリスト教の「救済」というテーマに書き替えられたブリテンの思惑は見事に原作を変容させていて、それでいて〈死〉という根本的なものを見据えた時、「成仏」という仏教的な概念と本質的な部分では繋がっているという確信を与えてくれた。
ブリテン :オペラ「カーリュー・リヴァー」
「隅田川」と「カーリュー・リヴァー」。東洋と西洋、14世紀と20世紀、仏教とキリスト教、そして生と死。2つの世界を行き来するような不思議な感覚を横須賀で味わった。それは一見かけ離れているように見えて、同時にそこに存在する。まるでパラレルワールドのように、映画「TENET」の時間軸を逆行するような体験と似ていたかもしれない。
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