洋楽情報・来日アーティスト・セレブファッション情報なら ナンバーシックスティーン

Dilemma

Column Feature Tweet Yoko Shimizu

能とオペラのパラレルワールド

YOKO SHIMIZU COLUMN


ラジオディレクター清水葉子コラム

清水葉子COLUMN
RADIO DIRECTOR 清水葉子

音大卒業後、大手楽器店に就職。クラシック音楽ソフトのバイヤー時代にラジオにも出演。その後に制作会社を経て、現在はフリーのラジオディレクターとして番組の企画制作に携わる。番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど幅広く活動中。

今話題の映画「TENET」を観た。冒頭から凄まじい勢いでストーリーが展開していくのだが、始まりはキエフのオペラハウス。そこでテロリストが舞台上に現れ、オーケストラの中に乱入し、楽器を叩きつけ人々を殺傷するシーンは音楽に携わる立場の人間としてはかなり恐怖で衝撃的だった。始まりと書いたが、時間軸を逆行するという手法のこの映画ではこれが始まりなのかどうなのかは、どんどん判然としなくなってくる。その時系列を頭の中で整理しながら観続けるのはなかなか難解でもあるのだが、それを差し置いても非常に面白い。映画の中で重要人物となるのは武器商人の妻である女性。彼女が捕われている理由は最愛の息子の存在による。

icon-youtube-play 映画「TENET」

さて、ここからは能とオペラの話である。母親が子を想う心が軸となっている物語は古今東西たくさん存在するが、私が横須賀で観た能の「隅田川」と、それに触発されてブリテンが書いたというオペラ「カーリュー・リヴァー」はまさにその悲劇を舞台にしたものである。

能とオペラの連続上演「幻(GEN)」と題されたこの興味深い企画。どちらもコロナ禍における取り組みとしては難しい部分も少なくない。しかし横須賀芸術劇場では日本でも珍しい馬蹄形のオペラハウス仕様の大ホールを備え、その素晴らしい会場にふさわしい企画をこれまでにも多く実現してきた。2005年から行なっている〈よこすか能〉では観世流シテ方の観世喜正のプロデュースで、そして〈オペラ宅配便シリーズ〉では声楽家でもあり、最近では演出家としても活躍する弥勒忠史が企画、演出を行なっている。今回の公演もこの両者がタッグを組み、ジャズ発祥の跡地でもあるこの場所での、東西の芸術文化のコラボレーションという企画は、特筆に値する素晴らしいものだと思う。ブリテンの「カーリュー・リヴァー」を生の上演で観劇できるというのも数少ない機会である。

icon-youtube-play 「隅田川」×「カーリュー・リヴァー」連続上演「幻」プレトーク

個人的には夫の実家が横須賀にある関係で、毎年新年には必ず訪れる土地ではあるのだが、実を言うと横須賀芸術劇場に足を踏み入れるのは初めてだった。京浜急行の汐入の駅からすぐ。都内からだと多少乗り継ぎはあるが、駅からのアクセスは非常に便利である。

まずは能「隅田川」から始まった。能舞台を通常の舞台上に作っているので橋掛かりがやや短い。しかし篝火が置かれた舞台演出はまさしく「幻」のタイトル通り、幽玄の世界がより強調される趣があった。しかしながらホールなので音響も非常に良く、地謡や太鼓の音色が鳴り響いて、能楽堂の凝縮された空間とはまた違った雰囲気だ。プログラムにある観世喜正自身の解説によると、能の演目には生き別れた親子の物語がいくつかあり、「百萬」「桜川」「三井寺」などは最後に親子が再会を果たしハッピーエンドとなるが、この「隅田川」だけが息子は亡くなってしまい、再会を果たせずに悲劇に終わっている。結末となる部分で亡くなった梅若丸が「南無阿弥陀仏」と幼い声を発すると、もはやこの世では息子を抱きしめることが叶わない母親の悲しみに、観ている私達までもが心をえぐられる思いがする。演者が舞台を去ってゆく独特の最後の余韻が暗闇の中に静かに横たわり、「隅田川」が終わる。

icon-youtube-play 能「隅田川」

45分の休憩を経てオペラ「カーリュー・リヴァー」の上演。大枠の舞台装置はそのままに十字架をメインに様式化したシンプルな演出に仕上げたのは、勿論新型コロナウィルス対策を考えてのことだったと思うが、それが能との違いを際立たせるというよりも、むしろテーマに共通性を多く含んだ作品という認識を私たちに提示していた。しかし圧倒的な違いはやはり音楽のスタイルの違いだろうか。フルートやホルン、オルガンといった小編成の楽器群ではあるけれども、それぞれの音色が性格的な要素となり、その響きはストーリーの中で効果的にドラマとしての彩りを添えて、より劇的な起承転結を成り立たせていた。演奏はフルートの上野星矢、オルガンの鈴木優人などソロでも活躍する一流奏者ばかりというのも大きなポイントだっただろう。キリスト教の「救済」というテーマに書き替えられたブリテンの思惑は見事に原作を変容させていて、それでいて〈死〉という根本的なものを見据えた時、「成仏」という仏教的な概念と本質的な部分では繋がっているという確信を与えてくれた。

icon-youtube-play ブリテン :オペラ「カーリュー・リヴァー」

「隅田川」と「カーリュー・リヴァー」。東洋と西洋、14世紀と20世紀、仏教とキリスト教、そして生と死。2つの世界を行き来するような不思議な感覚を横須賀で味わった。それは一見かけ離れているように見えて、同時にそこに存在する。まるでパラレルワールドのように、映画「TENET」の時間軸を逆行するような体験と似ていたかもしれない。

清水葉子の最近のコラム
RADIO DIRECTOR 清水葉子コラム

目黒爆怨夜怪とノヴェンバー・ステップス

先日、友人Cちゃんの誘いで薩摩琵琶を伴う怪談のライブに行った。人気怪談師の城谷歩さんと薩摩琵琶奏者の丸山恭司さんによる「目黒爆怨夜怪」と題されたイベントは、文字通り老舗ライブハウス「目黒ライブステーション」で行われた。折…

RADIO DIRECTOR 清水葉子コラム

西洋音楽が見た日本

ぐっと肌寒くなってきた。仕事が少し落ち着いているこの時期、私もコンサートや観劇に行く機会が多くなっている。ただ日々続々とコンサート情報が出てくるので、気が付くとチケットが完売だったり、慌てて残り少ない席を押さえたりするこ…

RADIO DIRECTOR 清水葉子コラム

もう一つの『ローエングリン』

すごいものを観てしまった。聴いてしまったというべきか。いや、全身の感覚を捉えられたという意味では体験したといった方が正しいかもしれない。 なんといっても橋本愛である。近寄りがたいほどの美貌と、どこかエキセントリックな魅力…

RADIO DIRECTOR 清水葉子コラム

知られざる五重奏曲

室内楽の中でも五重奏曲というのは、楽器編成によって全くイメージが変わるので面白いのだが、いつも同じ曲しか聴いていない気がしてしまう。最も有名なのはやはりシューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」だろうか。小中学校の音楽の授業でも…

RADIO DIRECTOR 清水葉子コラム

ムーティ指揮『アッティラ』演奏会形式上演

東京・春・音楽祭の仕事に関わっていたこの春から、イタリアの指揮者、ムーティが秋にも来日して、ヴェルディの「アッティラ」を指揮するということを知り、私は驚くと同時にとても楽しみにしていた。音楽祭の実行委員長である鈴木幸一氏…

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です