RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。クラシック音楽ソフトのバイヤー時代にラジオにも出演。その後に制作会社を経て、現在はフリーのラジオディレクターとして番組の企画制作に携わる。番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど幅広く活動中。
2020年ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の来日が決定した。欧米のオーケストラやアーティストの来日が軒並み中止となっている中、しかも本国オーストリアではロックダウンという最中に、このニュースはクラシック音楽業界では少なからず話題となった。業界全体の閉塞感が高まっている今、喜ばしいニュースであり、同時に世界情勢を考えると賛否両論あるようだ。
コロナ禍において「音楽」というものの在り方が今までと全く変わってしまったことは周知の事実である。日本の緊急事態宣言下では文字通り、音楽が消えた。比較的規制が緩くなってきた今でも(実際は自粛だったのだが)、どこかに言い知れぬ不安が残っているのは免れない。ウィーン・フィルというカンフル剤は果たしてそれを覆す威力を発揮できるのだろうか。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
そんな時に岡田暁雄氏の「音楽の危機」という本を興味深く読んだ。国内オーケストラがちらほらと定期演奏会を再開し出した頃、ようやく生の音楽に触れることができた久しぶりのコンサートを私も万感の思いで聴いたのだが、それも何度か機会を重ねるうちに、どこか喉の奥につかえるような得体の知れない感覚があったことは否めない。生命を守るためには衛生面に気を遣う必要があり、奏者の距離を保ったり、楽器の配置を変えたり、合唱を必要以上に小編成にしたり、或いはそうした大編成のプログラムを避けたり、また客席も間隔を空けたり(結果ホールに収容する人数の半数以下になったり)、そうした状態で聴くことは(もしくは演奏することは)、今までのように音楽がすぐ隣にある生活とは真逆の、むしろ障害になるようなことも多く、しっくりと身体に馴染まないことは当然といえば当然だ。やがて「不要不急」のレッテルを貼られ、音楽は生命を守るためには必要のないものであるかのように扱われてきた。
岡田氏が指摘するのは、ここでいう「音楽」とは〈生〉で体験するそれであり、録音で聴く「音楽」はそこに様々な加工や第三者の手によるパッケージ化された意図的なものだと考えると、純粋な「音楽」とは別物、というのである。これは面白い考え方だと思った。コロナ禍でストリーミングや録音メディアが注目される一方で、場の空気を共有することで味わう音こそが「音楽」なのだ、ということ。もちろんそれは岡田氏も言うように、録音された音楽を否定するものではないが、それは「録楽」として区別して考えるべきだという。例えば「オンライン飲み会」や「ネット帰省」を例に挙げると、バーチャルでの「帰省」に、実際には帰省できていないのにも関わらず、その事実から目を背け、事実自体を捻じ曲げてしまうことにもなりかねない。それはとても危険なことだ、と。
空気を共有するーー。それが音楽の本質であるならば、時代とともに音楽の在り方が変わってくることはむしろ当然である。例えば戦争を経験した音楽家達がその後どんな音楽を書いたのか。またウェーベルンやストラヴィンスキーの作品が発表当時顧みられなかったことは、一歩先に時代の空気を感じて、それを音楽を通して表現したからに他ならない。そうしたエピソードからの考察も、今回このコロナ禍で「不要不急」のレッテルを貼られてしまった芸術、文化の本来の意味を考えさせられる。
ストラヴィンスキー :春の祭典
この本で象徴的に挙げられているのがベートーヴェンの交響曲第9番である。この曲はもちろん終楽章に合唱を伴う大規模な編成の交響曲であり、その歌詞にはシラーの「歓喜に寄す」の詩が用いられ、人類の友愛を高々と歌ったベートーヴェンの最後にして最高傑作の交響曲だ。歴史に民主主義が誕生してからもこの曲の「理想」は国を超えて愛されてきた。日本でも年末にあちこちで演奏されてきたことはご承知の通り。しかし「人類よ、抱き合え」と謳ったこの曲が2020年、奇しくもベートーヴェンの生誕250年を記念する年に、ソーシャルディスタンスを前提とするこの世界で、物理的な意味合いにおいても演奏困難、ということは音楽史上、皮肉なことではないか。果たして「第九」が演奏される時がこの先訪れたとして、2020年を経験した私達が何の迷いもなくこの音楽を受け入れられるのか? この問いは心に深く突き刺さった。
ベートーヴェン:交響曲第9番
実は職場での話だが、最近ジョン・ケージの「4分33秒」という有名な作品の音源を放送で使うかどうかでちょっとした問題になった。この曲はピアニストがピアノの前で4分33秒間じっと座っているだけの曲である。当然音を発しないので、そのまま流せばほぼ無音のままとなり、放送事故になるのは明白である。然るにこの曲はケージがそれまでの音楽の概念を覆し、その場の空気を共有する究極の音楽として発表したもので、一種のインスタレーションともいえるだろう。
これを録音してラジオで流すことが果たして意味のあることなのかどうかは別問題として、音楽が時間と空間を共有する一期一会なものだと考えるならば、「4分33秒」はそこにある無音そのものを聴くわけではない。音以上の何かを演奏者と聴き手が共有するのである。だとすればまさしく今、時代はこの沈黙の音楽を聴くべきなのかもしれない。
ジョン・ケージ:4分33秒
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