RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。クラシック音楽ソフトのバイヤー時代にラジオにも出演。その後に制作会社を経て、現在はフリーのラジオディレクターとして番組の企画制作に携わる。番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど幅広く活動中。
今、最も聴きたいピアニストは誰か?と訊かれれば藤田真央、と即答する人は多いだろう。デビュー当時から天才の呼び声が高かったが、今ではコンサートのチケットは文字通り争奪戦である。
今更ではあるが、藤田真央のプロフィールを紹介しておこう。1998年、東京生まれ。東京音楽大学在学中から才能を発揮し、2017年には弱冠18歳でクララ・ハスキル国際コンクール優勝。2019年にはチャイコフスキー国際コンクールで第2位。一躍世界の注目を集めた。
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番by藤田真央(P)
もちろんかくいう私も彼のピアノのファンである。初めて生の演奏を聴いたのはトッパンホールのニューイヤーコンサートだった。2台ピアノのプログラムだったのだが、他のピアニストとあまりに音色が違うのでまさに衝撃的だった。こんな音を出せるピアニストが現代の日本に存在しているなんて。それ以降は録音でも聴き続けている。まだ20歳そこそこで凄まじい勢いで演奏活動を開始していたので、老婆心ながらその素晴らしい才能をじっくりと花開かせて欲しいと思ったものである。そう、彼の演奏は既に「藤田真央」という特別なブランドでありながら、まだまだ芸術という限りない頂へと続く道程の可能性を感じるのである。
だから藤田真央の演奏で聴きたい曲がたくさんある。私にとってその一つがシューマンのピアノ協奏曲だった。天衣無縫なタッチと、得も言われぬフレージング、一方で舌を巻くほどのテクニックも持ち合わせている彼のピアニズムを全方位的に味わうのなら、シューマンの協奏曲はうってつけだ。そんな時、NHK交響楽団と共演するという情報を聞き、実は2年前にNHKホールでのコンサートを聴きに行った。しかし、かなりステージから遠くの端の席になってしまい、あまりピアノの音が届かず、どうにも消化不良だったのである。物理的な音響の問題と、少し藤田真央自身もオケに遠慮しているような感じがあった。
シューマン:ピアノ協奏曲イ短調byマルタ・アルゲリッチ (P)
再びシューマンのピアノ協奏曲を藤田真央の演奏で聴くチャンスがやってきた。このところ彼のリサイタルは即日完売でチケットが入手できないことも多かったのだが、少し後方の位置ではあったがS席を確保。共演のオケは東京都交響楽団で指揮は音楽監督の大野和士。会場はオペラシティコンサートホール。これはかなり期待できそうである。先日の「ばらの騎士」以降、ちょっとしたシュトラウス・ブームが私の中に起きていたので、後半のプログラムがR・シュトラウスの「英雄の生涯」というのも惹かれた。
満を持して初台へと向かう。プログラムにはなかったが、1曲目に静かで瞑想的な短いオーケストラ曲が演奏された。後で知ったが、シルヴェストロフの「ウクライナへの祈り」という曲だった。今の世界情勢を考えると、こうした曲をピックアップして平和を祈り、傷つけられた人々に心を寄せる、ということは特に東京都という自治体をスポンサーに持つオーケストラとしての姿勢を感じさせる。
続いて藤田真央がステージに登場。一際大きな拍手が起こる。ヒョロヒョロした手足を持て余すように少し俯きがちにオケの間を歩いてくるが、その表情は笑みが溢れている。シューマンの冒頭はイ短調の悲劇的な和音から始まるが、その音だけで藤田真央のピアノとわかる。仄暗いメロディーは妻の「クララ」の文字を擬えた音に始まる。優秀なピアニストでもあったクララへのシューマンの愛情が深く刻み込まれた情熱的な音楽なのである。藤田のピアノは少し遅めのテンポをとり、かなりたっぷりとこの美しいメロディーを歌わせる。大野和士の指揮する都響がぴたりと彼のピアノに合わせていく。
2年前に聴いたシューマンより明らかにアンサンブルはまとまっている。しかし私の頭の中にあるイメージのシューマンよりかなり個性的な演奏だったのは意外だった。藤田は最近室内楽も行うなど、かなりレパートリーを広げつつあるが、その中で彼独自の変化を遂げているのだろうか。そしてその方向性がこうした自由な解釈に表れているのだとしたら、藤田真央の進化は今後、予想のつかないものになるのかもしれない。
アンコールは彼の十八番であるモーツァルトで、ハ長調のピアノソナタK545の第1楽章。ピアノ学習者が初期に習う、この可愛らしい曲。まるで天使が弾いているように軽やかに煌く音色は絶品で、まるでホロヴィッツを思わせた。
モーツァルト:ピアノソナタ ハ長調K545by藤田真央(P)
さて、休憩後はR.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。後期ロマン派の最高傑作とも言われる作品はヴァイオリン・ソロが活躍する協奏的な場面もある。都響の顔であるコンサートマスター、矢部達哉が見事なソロを聴かせた。一人の英雄=作曲家の一生を音で描いていくこの楽曲は長大で、ドラマに満ちている。重厚で緻密なシュトラウスのスコアを音楽にまとめるのは指揮者の力量の見せ所でもある。大野和士は持ち前の知的なアプローチで、このオーケストラの隙のない響きを一層引き立てていた。
東京都交響楽団
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