
RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。クラシック音楽ソフトのバイヤー時代にラジオにも出演。その後に制作会社を経て、現在はフリーのラジオディレクターとして番組の企画制作に携わる。番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど幅広く活動中。
久しぶりにリート・リサイタルを聴く。
リートとはドイツ語で歌曲のこと。リート・リサイタルはクラシックコンサートの中でもお客さんが入りにくい、という話を聞いたことがある。確かに歌詞が外国語という点でまずハードルが上がる。ざっとストーリーを頭に入れておけばエンターテイメントとして楽しめるオペラとはちょっと事情が違う。ドイツリートはより高尚で、テキストの解釈も含めて教養が必要なイメージがあるせいだろうか。しかし今回はマーク・パドモアと内田光子の共演ということで、私も何はともあれ是非とも聴いておきたいと思った。
どんなことでも連続すれば疲れが出るものだが、この週はコンサート三昧。リートは静かな余韻を味わうのが醍醐味なので、コンディションを整えることが必要である。寒い季節は外からやって来てホールの暖かさにウトウト…なんてことも結構ある。
とにかく睡眠不足は持ってのほか、まずは前日たっぷりと眠る。できればその日一日のスケジュールも余裕を持って過ごしたい。食事を摂るタイミングは大切だ。食べ過ぎても眠気を誘うし、空腹過ぎても静かなホールの中にお腹の音が響き渡るのはいただけない。その日は遅い朝食をとってから昼過ぎにスタジオに行ってデータ入力などの簡単な作業を済ませた。食事は会場のホール近くで済ませるのがベスト。混んでいたり、料理の出るタイミングが遅かったりしても慌てなくて済む。
私は開演の2時間前にホール近くのカフェで友人と軽く食事をすることにしていた。しかし17時位だとランチ営業とディナー営業の間の時間帯だったりもするので、普段からある程度お店をチェックしておくことも大切なのである。そしてこれはマストではないが、コンサートの内容に合わせた食事というのも意外と重要である。シューベルトの「白鳥の歌」を聴く前に焼肉とかカレーとかを食べるものではない。客席でスパイスの香りを漂わせていたらコンサートも興醒めである。東京オペラシティはレストランなどの商業施設も多く、比較的選択肢があるので、私と友人はいつものカフェでデトックス・サラダとオーガニックコーヒーをオーダー。いざコンサートホールへ向かう。
マーク・パドモアはバロックオペラやバッハの受難曲のエヴァンゲリスト役などを得意とする、イギリスを代表するテノールである。渋めのルックスも魅力的だが、やや硬質の声と深い楽曲解釈から発せられる表現が身上だ。それはドイツリートなどにも発揮され、現代を代表するピアニスト、ポール・ルイスやクリスティアン・ベザイデンホウトなどと数々の録音も残している。この個性的で才能あるピアニストらを共演者に選ぶ時点でセンスが窺い知れる。そのいずれもが素晴らしい内容なのだが、シューベルトといえばこれを得意とするピアニストの最右翼に挙げられるのが内田光子に違いない。パドモアと内田はともにイギリスを拠点に活動していることで、信頼関係も厚い。
マーク・パドモア
更に内田光子といえばこの秋、アンドリス・ネルソンス率いるボストン交響楽団とベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」で共演。そのチケットは早々に売り切れだった。ドイツ、オーストリアのレパートリーにおける彼女に対する期待の大きさはやはり絶大だ。しかし個人的には彼女のピアノは協奏曲よりもリートのように内省的な世界に向いているような気がする。実は先日、このデュオでシューベルトの「冬の旅」というプログラムもあった。この季節に聴くにはぴったりの演目ではあったのだが、残念ながらこちらは行かれずじまい。
内田光子
さて、ベートーヴェンの歌曲から始まったプログラムは連作歌曲集「遥かなる恋人に」で前半を閉じる。ベートーヴェンの中期と後期の間に書かれたこの歌曲集は大傑作と言われることは少ないながらも、折に触れて顔を見せるベートーヴェンの可憐でロマンティックな音楽を凝縮している。じんわりとその珠玉の作品を噛み締める。
こちらも良かったが、白眉は後半、シューベルトの遺作を集めた歌曲集「白鳥の歌」。パドモアもこの作品ではシューベルトのデモーニッシュな世界を強調し、有名な「セレナーデ」では内田のピアノも冒頭からかなりテンポを落とし、他の録音で聴くよりもロマンティックな表現に少し驚く。「影法師」では悲劇的に、一方で虚無感を顕に歌い上げる。シューベルトの哀しくも美しい、そして同時に〈死〉を感じさせる深い音楽にしばし陶酔してしまう。
シューベルト:白鳥の歌より「セレナーデ」
コンサートには後半上皇后美智子さまの姿もあった。内田光子との親交も厚いとのこと。どこかハイブロウな雰囲気の客層は彼女のコンサートの特徴だが、この日もそれを象徴するような格調の高さ、みたいなものが感じられた。
自然に周りから沸き起こる拍手に対して控えめに、しかし丁寧にお辞儀をし、手を振る美智子さまに客席が一瞬にして心を奪われている様子は、音楽の余韻とともに、まさにこの日のプログラムにおける〈永遠の恋人〉のような存在感だった。
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