RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。クラシック音楽ソフトのバイヤー時代にラジオにも出演。その後に制作会社を経て、現在はフリーのラジオディレクターとして番組の企画制作に携わる。番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど幅広く活動中。
12月で担当番組が終了したので、新年になってからはわりとのんびり過ごしている。なにしろ週50時間近い番組を制作していたので、正直かなり多忙だった。会社員だったら労働問題になるところである。コンサートやアートを鑑賞したり、ゆっくり読書を楽しむ余裕もなかった。それでもコンサートは半分仕事でもあるので、番組制作の合間を縫って出掛けていたが、ギリギリまでスタジオで編集し、コンサート後にまたスタジオに戻って仕事して終電で帰る、なんてこともザラだった。ホテル代が安かった頃は時間を節約するためにホテルに宿泊することも多かったが、そんな悲壮感伴う私のホテルライフもとうとう終わりを迎えた。
コロナ禍といえば、初期の頃はコンサートやライブも中止が相次ぎ、私の周りには演奏やライブ活動で生計を立てている友人も多いので、皆それぞれ我慢を強いられていたと思う。しかし第8波の今、コロナと共存する方向にシフトしてきたせいか、友人たちの活動も徐々に再開してきた。
そんなシンガーソングライターの一人である川久保秀一さんが江ノ島でライブを行うことになった。彼は音楽活動の傍ら、ラジオのパーソナリティも務めていて、ミュージックバードでは生放送を2本担当している。生放送の前後にスタジオで顔を合わせることも多いので、よくコーヒーを淹れてくれたりする。そんなふうに何かとお世話になっている川久保さんなので、久しぶりにライブを江ノ島まで聴きに行くことにした。
川久保秀一
現在は在京オーケストラの事務局で働く、後輩Mちゃんを誘ってみた。彼女がミュージックバード在籍時代にも、何度か一緒にライブに行っていたのだが、久しぶりに会うMちゃんからは結婚間近とのおめでたい報告もあった。そして長年クラシックの番組でもお世話になった、鎌倉在住の音楽ライター原典子さんにも、お声掛けして今回3人でライブの前にお茶をすることになった。
七里ヶ浜に新しくできたという海辺を一望できるカフェに入ると、ちょうど日没の時間で、真っ赤な太陽が海の向こうに沈んでいく。その絶景に思わずスマホを取り出して写真撮影。このままただただ夕陽を眺めていたくなったが、ライブの時間が近づいていた。カプチーノを飲みながらひとしきりおしゃべりして原さんとは別れ、2人で江の島の虎丸座へと向かう。
マルティヌー:海辺の夕暮れ
最近川久保さんはニューアルバムを発売したばかりで、ライブではそんな新曲とともに、歌心りえさんの人気韓流ドラマの主題歌なども交えて披露された。生放送で鍛えたトークも快調で、関係者も多かったので大いに盛り上がり、和気藹々とライブは終了した。
その日私は毛皮の帽子を江ノ電の中に置き忘れてしまった。もう10年近く使っていたもので、フェイクだが薄茶色の毛皮でできていて、耳当てを上に上げて被るとロシア帽っぽく、とても温かいので重宝していた。もちろんロシアもののオペラを鑑賞したりする時もファッションとして意識的に被っていたお気に入りだった。
ボロディン:オペラ「イーゴリ公」
西条八十の詩の一説じゃないけれど、その冬バージョン(?)かもしれない。私は気に入ると長く愛用するタイプだ。それなのに最近昔から愛用していた物をよく失くす。忘れっぽくなっているのかもしれないが、そろそろお別れだよ、と何かのお告げのような気もしていた。それでもダメもとで江ノ電に問い合わせてみる。すると稲村ヶ崎の駅に保管されていると言う。
西条八十:「僕の帽子」朗読
翌日も一人で江ノ電に乗り、鎌倉方面に向かったが、月曜日だったので比較的車内は空いていた。稲村ヶ崎で帽子を受け取り、私はあのカフェから見える海をもう一度見たくなって再び七里ヶ浜で降り、午後の日差しが差し込む窓際の席に座った。ついでに生牡蠣の前菜がついたランチを注文し、食後のコーヒーとともに読書の続き。風が強かったので窓は閉められていたが、隙間から風の音がビュービューと聞こえ、同時に波の音も微かに届いてきた。
サカナクション:「多分、風。」
ずっと郊外で育ったので、海といえば夏休みに海水浴に行くくらい。でも泳ぎは下手で溺れかけた記憶もあるのであまり海に親しみを感じることはなかった。でも今こうして波の音を聞きながら過ごすのは決して悪くない。海辺を歩いてみたくなり、店を出て鎌倉高校駅まで晴れた海を左手に歩く。平日の昼間に湘南の海辺を歩く自分なんて少し前までは全く想像できなかった。
鎌倉高校前駅は若者で賑わっていた。帰宅途中のリアル高校生もいたのだが、観光に訪れてきている人がやはり多い。人気漫画「スラムダンク」の舞台にもなっているので、そのせいだろう。豹柄のコートを着てサングラスをかけた私はやはり少し浮いていた。
江ノ電と鎌倉高校前駅
駅舎の目の前に海が広がるこの場所はCMや映画、アルバムジャケットなどにも使われるフォトジェニックなスポットだ。次の電車が来るまでベンチに座って海を眺めながら、戻ってきてくれた帽子を手に待つ。まるで絵葉書のような長閑な風景の中にいる自分がちぐはぐな気がして、なんだか可笑しかった。
マスネ:組曲第4番「絵のような風景」
清水葉子の最近のコラム
目黒爆怨夜怪とノヴェンバー・ステップス
先日、友人Cちゃんの誘いで薩摩琵琶を伴う怪談のライブに行った。人気怪談師の城谷歩さんと薩摩琵琶奏者の丸山恭司さんによる「目黒爆怨夜怪」と題されたイベントは、文字通り老舗ライブハウス「目黒ライブステーション」で行われた。折…
西洋音楽が見た日本
ぐっと肌寒くなってきた。仕事が少し落ち着いているこの時期、私もコンサートや観劇に行く機会が多くなっている。ただ日々続々とコンサート情報が出てくるので、気が付くとチケットが完売だったり、慌てて残り少ない席を押さえたりするこ…
もう一つの『ローエングリン』
すごいものを観てしまった。聴いてしまったというべきか。いや、全身の感覚を捉えられたという意味では体験したといった方が正しいかもしれない。 なんといっても橋本愛である。近寄りがたいほどの美貌と、どこかエキセントリックな魅力…
知られざる五重奏曲
室内楽の中でも五重奏曲というのは、楽器編成によって全くイメージが変わるので面白いのだが、いつも同じ曲しか聴いていない気がしてしまう。最も有名なのはやはりシューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」だろうか。小中学校の音楽の授業でも…
ムーティ指揮『アッティラ』演奏会形式上演
東京・春・音楽祭の仕事に関わっていたこの春から、イタリアの指揮者、ムーティが秋にも来日して、ヴェルディの「アッティラ」を指揮するということを知り、私は驚くと同時にとても楽しみにしていた。音楽祭の実行委員長である鈴木幸一氏…