
RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。クラシック音楽ソフトのバイヤー時代にラジオにも出演。その後に制作会社を経て、現在はフリーのラジオディレクターとして番組の企画制作に携わる。番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど幅広く活動中。
その日は冷たい雨の日だった。私は電車に乗っていたが音楽が聴きたくなってiPhoneを取り出す。ふと、先日亡くなったバート・バカラックの「雨にぬれても」を選ぶ。J.B.トーマスが歌う、その穏やかで懐かしいメロディーになんともいえない感情が込み上げてきた。
映画『明日に向かって撃て!』より「雨にぬれても」
バート・バカラックについては私がここであれこれ説明するまでもない。先日94歳で亡くなったアメリカが生んだポップミュージックの大御所である。「雨にぬれても」は1969年、ポール・ニューマン主演の西部劇映画「明日に向かって撃て!」の挿入歌として作曲され、アカデミー主題歌賞を受賞した名曲である。稀代のメロディーメーカーだったバカラックは、シンガーソングライターとして活躍するだけでなく、ディオンヌ・ワーウィックやカーペンターズへの楽曲提供や、アレンジャー、プロデュースなどでも知られている。その親しみやすい音楽性で現代の中高年以降の世代にとっては映画やミュージカルなどでもお馴染みの存在だった。お馴染み過ぎて「バカラックが好き」と公言することに、どこか気恥ずかしささえ漂った時代もあった。それくらい様々にカヴァーされ、人々の耳に刷り込まれていたのだ。あまりに存在が大きく、私たちの人生に空気のように満ちていた彼の音楽は、ともすると生前は少しありがたみを忘れかけていたのかもしれない、とさえ思う。
でも、こうして耳を傾けるとその親しみやすさの向こう側には一捻りしたコード進行があり、ジャズやボサノヴァの雰囲気を称えたリズムに乗り、巧みなアレンジで成り立っている。そこにはかなり高度な音楽技法が用いられていることに気づく。それもそのはず、調べてみるとバカラックは、クラシック音楽のアカデミックな作曲法をダリウス・ミヨーやヘンリー・カウエルなどに師事している。音楽史上でも特筆されるあの「フランス6人組」の一人、ミヨーに直接教えを受けているなんて、バカラックのキャリアの長さと深さたるや、改めて只者ではない。ブラジルで生活した経験から南米音楽の要素も強いミヨーの音楽と、バカラックのボサノヴァっぽさはまさに相通じるところがあり、その影響は確かに感じられる。
ミヨー:スカラムーシュ
そんな彼は長いキャリアの中で様々なアーティストたちに影響を与えている。ディオンヌ・ワーウィック、ブライアン・ウィルソン、バーブラ・ストライサンド、シェリル・クロウ、坂本龍一、リアム・ギャラガー、シンプリー・レッドなど錚々たる顔ぶれが相次いで追悼コメントを発表していることからも窺える。
そういえば最近注目の若手シンガーソングライター、藤井風のカヴァーアルバム「HELP EVER HURT COVER」にはバカラックの曲が数曲入っている。最近これがお気に入りでよく聴いているのだが、バカラックのオリジナルの楽曲ももちろん素晴らしいが、やはりクラシックやジャズのイディオムで独自の世界を作り上げている藤井風の溢れる才能にも驚嘆している。アルバムではそんな彼がカヴァーすることで更なる魅力を発揮している。(マイケル・ジャクソンの「Beat It」なども一聴の価値あり!)
こうしてみるとまるでバカラックはクラシックにおけるバッハのような存在ではないか。時代を超えても愛され続け、どんなアレンジを加えてもオリジナルの魅力を損なうことなく、幾重にも可能性を広げることのできる音楽。そういえばバカラックはBacharachと綴るのでその中にBach=バッハを含んでいるのも何か面白い。
バッハ:G線上のアリア
バカラックは1971年の初来日以来、何度か来日もしている。2008年の来日時には私も音楽好きの友人夫婦と一緒に、東京国際フォーラムに聴きに行ったのを思い出した。しかし実はその時のコンサート自体の記憶はあまり残っていない。その後、その友人夫婦が離婚してしまったこともあって、人間関係のいろいろが感情的に影響も大きかったので、そのせいもあるのだろうか。
そんな昔の少し苦い思い出とともに「Close to you」を聴くと、複雑に絡まり合った糸が解れていくような感覚を覚える。そう、それこそがバカラックの音楽の本質なのだ。時代を越えてしみじみと心の襞に染み渡るメロディーが、まるで水彩画のように映画や人生のキャンバスに淡い彩りを添え、時を経て落ち着いた配色へと変化していく。そんな彼のやさしい音楽を、私たちはこれからも聴き続けるだろう。
Close To You
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