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Dilemma

Column Feature Tweet Yoko Shimizu

映画『TAR/ター』の衝撃

YOKO SHIMIZU COLUMN


ラジオディレクター清水葉子コラム

清水葉子COLUMN
RADIO DIRECTOR 清水葉子

音大卒業後、大手楽器店に就職。クラシック音楽ソフトのバイヤー時代にラジオにも出演。その後に制作会社を経て、現在はフリーのラジオディレクターとして番組の企画制作に携わる。番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど幅広く活動中。

話題の映画、「TAR/ター」を観た。ケイト・ブランシェットが現代を生きる才能溢れる女性指揮者を演じて、アカデミー賞6部門にノミネートされていることからも注目されている。

この作品は幾重にも問題が絡んでいる。衝撃のラストをどう読み解くか、ということは観客に委ねられている、と脚本と監督を務めたトッド・フィールドが自ら語っている。実際、公式サイトによると結末の印象はBADエンドが50%、HAPPYエンドが32%、どちらでもないが18%と確かに様々に印象が分かれるようだ。

私の感想は冒頭からとにかく圧倒的にリアルである、ということだ。実在の有名な音楽家、バーンスタインやアバドといった往年の名指揮者、ベルリン・フィルやニューヨーク・フィルなど名門オーケストラの名前が次々と飛び出し、彼らの活動の中に架空の存在であるリディア・ターのキャリアが絶妙に絡んでおり、クラシック音楽事情に詳しい人間ならば、それだけでもう一つの音楽世界へと足を踏み入れたような錯覚を覚える。

音楽史上実在の人物を映画化するのは比較的多い気がするが、ともするとその音楽の部分はおざなりだったり、役者が音楽家を演じる、ということにも無理があったりする。コアな音楽ファンにとっては鼻白むことが多い。一方で現代社会に生きる音楽家を主役にした映画というのはあっても、どちらかというと音楽家という側面は二次的に扱われることが多い気がする。恋愛映画にシフトしてしまうこともしばしばで、どこかお約束的に無理やり納得させられていた設定を完全に覆して裏側まで描いているのがこの映画の天晴れなところである。

icon-youtube-play 映画「TAR/ター」より

なんといっても主役の女性指揮者リディア・ターを演じるケイト・ブランシェットの存在感がすごい。これまでにも女王陛下など重厚な役どころで存在感を醸し出している人ではあるが、彼女なしには成り立たなかったのではないか。指揮もかなり研究したのだろうと思われ、とかく顔芸になってしまいがちな「役者が演じる指揮者」を払拭した感がある。同性愛者であると同時に数々の音楽賞を受賞し、ベルリン・フィルの首席指揮者を務め、自伝の出版も控えた人生の絶頂期であるター。だからこそ絶大な発言力を持ち、その権力を意識的にも無意識的にも駆使していく傲慢な天才をブランシェットは見事に演じている。 

それだけではない。作曲家でもあるターは、芸術という崇高な世界を目指しながら日々の複雑な人間関係、オーケストラやその運営を廻るビジネス的な問題にも対処しなければならない。非常に特殊でタフなのが現代の指揮者という仕事なのである。並大抵の能力ではこなせないこの仕事の中身も、この映画では窺い知ることができるだろう。ターはその中で生じるトラブルから次第に精神の安定を欠いてゆく。

監督のトッド・フィールドはその過程で無駄な音楽を多用しない。夜中に鳴り響くメトロノーム、隣人の常軌を逸した行動、廃墟となった建物の中に迷いこみ何者かに追いかけられる、溺愛する娘がいじめられていると聞けば、子どもであっても容赦なく脅しをかける、大学の講義で学生を論破して追い詰めたり、これらを長回しの映像で迫る。観客は不安に同調させられ、自分たちも追い詰められる感覚になる。

リアルな理由は他にもある。新人チェリスト、オルガ役のソフィー・カウアーは実際にもチェリストであるという。他にもセクハラで音楽界を去った大御所指揮者の名前が実名で出ている。日本では忖度もあってなかなか難しいだろうということもセリフにあり、思い切った演出には驚かされる。

これだけ音楽面で作り込まれているのはクラシック音楽の名門レーベル、ドイツグラモフォンの協力なくしては語れない。日本盤はユニバーサル・ミュージックからサントラが発売されているのだが、ブランシェット演じるターのジャケット写真のアングルに見覚えがある人は多いだろう。そこかしこに往年のマエストロへのオマージュがあるのも音楽ファンにとってたまらない魅力である。映画本編ではマーラーの交響曲第5番やエルガーのチェロ協奏曲といった名曲も聴かせるが、アイスランドの作曲家、ヒドゥル・グドナドッティルのオリジナル曲もターの作品として登場。そのバランスもよく考えられている。個人的にはドラマ「チェルノブイリ」での静謐な音楽が印象深い。またターは学生時代に民族音楽を研究したという設定で、シャーマニズム文化にも光を当てている。

これらのリアルなクラシック音楽界の設定を前にして、レナード・バーンスタインの存在の大きさを感じざるを得ない。監修しているジョン・マウチェリが彼の弟子だったこともあるだろうが、バーンスタインの足跡はターの指揮者としてのキャリアにそのままオーバーラップする。もちろん映画はフィールド監督の独自の創作になっているわけだが、それも含めて指揮者という存在の大きさをクローズアップした本作、音楽ファンでなくとも必見である。

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