洋楽情報・来日アーティスト・セレブファッション情報なら ナンバーシックスティーン

Dilemma

Column Feature Tweet Yoko Shimizu

変化するMET〜『デッドマン・ウォーキング』

YOKO SHIMIZU COLUMN


ラジオディレクター清水葉子コラム

清水葉子COLUMN
RADIO DIRECTOR 清水葉子

音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。

METライブビューイングの新シーズンが始まった。

ニューヨークのメトロポリタン・オペラの上演を映画館で鑑賞できるという画期的な企画は、METの総裁であるピーター・ゲルブが考案したという。2006年から始まって、今では世界中の映画館で上映されているわけだが、ともすれば一部のセレブリティが楽しむもの、といったオペラのイメージを少なからず覆したに違いない。現に私の周りでも、これをきっかけにして生のオペラの舞台を頻繁に観に行くようになった友人がいるくらいである。

このMETライブビューイング、私もこれまで何度も番組内で紹介してきたわけだが、時代を追うごとにそのコンセプトの変化を感じてきた。どちらかというと王道の演目を伝統的な手法で豪華絢爛に上演するというのが長年のMETの特色だった。出演者にしても観客にしても圧倒的に白人が多かった。それがどういう意味なのかは推して知るべしである。しかし2020年に、ガーシュウィンのオペラ「ポーギーとベス」がライブビューイングに登場したあたりから、アメリカという国の華やかな部分に隠れた歴史や現実にも目を向けるべきだ、という意識がこの世界的なオペラの殿堂でも本格的に生まれてきたように思う。

ヴェルディやプッチーニ、モーツァルトにシュトラウス、ワーグナー、これらの伝統的なオペラは言うまでもなく素晴らしい。だが、21世紀に生きる私達から見れば感覚的に共感しにくいところがあるのも事実だ。コロナ禍で世界中の歌劇場が閉鎖を余儀なくされ、かつてない苦境に立たされたのはMETも同様である。しかしそれらを経て、現代には現代に生きる作曲家や脚本家が制作するオペラが存在し、それを上演することは多様な価値観を内包するこの時代へ、メッセージを発信することに他ならない。そんなMETの気概は新たな2023-2024シーズンに力強く反映していると言えるだろう。

icon-youtube-play METライブビューイング2023-2024シーズン

オープニングを飾ったのはジェイク・ヘギーの「デッドマン・ウォーキング」。実在するルイジアナ州の修道女、ヘレン・プレジャンの実話を元にした原作は死刑囚と修道女の心の交流を描く愛の物語である。しかしそれは単なるセンチメンタルなメロドラマとは一線を画している。果たして人間が人間を裁くことは正しいことなのか? 大きなテーマは死刑制度の是非であり、人種問題、宗教観など、様々な側面からアメリカ社会が抱える問題を浮き彫りにする。修道女ヘレンと対話をする中で、死刑囚ジョセフが彼女に心を許し、最後に罪を認めて悔い改めつつも、死の恐怖に苛まれながら処刑されるシーンには鳥肌が立った。あのプーランクのオペラ「カルメル会修道女の対話」のラストの処刑シーンにも匹敵するほどの恐ろしさだ。

このプロダクションでは映像が存分に駆使され、それがクローズアップされることで、よりリアルに観客に訴えかけてくる。序盤は若いカップルが暴行されて殺される映像、最後はジョセフの体に繋がれた管から薬剤が投与される瞬間まで、我々は具に目撃するのである。それはまるで映画を観ているようで、一見その余りに映画的な作りにやや困惑しかけたところ、舞台に戻ればそこにはやはり舞台としての演出があり、見事にオペラとして落とし込まれている。シンプルな色彩と簡素な舞台背景がかえって効果的な演出はイヴォ・ヴァン・ホーヴェ。

そしてインパクトのある舞台を担ったのはやはりキャスト達のパフォーマンスである。特に主役のヘレンを演じたジョイス・ディドナートは、シスター・ヘレン・プレジャン本人とも厚い親交があり、役に対する理解度の深さはヘレン本人も認めるところだ。彼女が歌うラストのアリアは切なくも痛ましい。また死刑囚の母親役にはこのオペラの初演でヘレンを演じたスーザン・グラハムが圧巻の存在感で登場。また、ラトニア・ムーアがヘレンの友人、シスター・ローズを演じていて、こちらもゴスペル仕込みの深い歌声で感動を呼び起こす。死刑囚ジョセフにはライアン・マキニー。刑務所の中で腕立て伏せをしながら歌うシーンがあり、昨今のオペラ演出において、歌手は舞台役者並みの演技力に加え、身体能力や体力も必要不可欠なのだが、彼も難なくそれをこなしていて、感心するばかりである。そして音楽監督のヤニック・ネゼ=セガンがヘギーのドラマティックで美しい音楽を力強く鳴らす。さすがはMET、全てが完璧な布陣なのである。

icon-youtube-play J.ヘギー「デッドマン・ウォーキング」予告編

しかしながら「人は生まれながらにして罪人である」というキリスト教の概念でもある「原罪」を考える時、衝撃のラストシーンは観る者の心に深く、強く刻まれることだろう。時代の変化を捉えた驚くべきオープニング作品の登場に、いちオペラファンとしてMETに大きな拍手を送りたい。

尚、METライブビューイングのラインナップは年明けには「マルコムX」、「アマゾンのフロレンシア」と初演が続くのも注目である。

清水葉子の最近のコラム
RADIO DIRECTOR 清水葉子コラム

極彩色のオペラ『アマゾンのフロレンシア』

立春を過ぎてもまだまだ寒いと思っていたが、昼間は暖かい日差しが降り注ぐ。こうなるとロングブーツを脱いで久しぶりに軽やかにバレエシューズを履いて出掛けたくなる。そんな春めいた装いで東銀座に向かった。 METライブビューイン…

RADIO DIRECTOR 清水葉子コラム

世界のオザワ

2月9日の夜、指揮者の小澤征爾の訃報が世界中を駆けめぐった。彼が長く音楽監督を務めたボストン交響楽団では追悼コメントとともに、バッハのアリアがしめやかにコンサートで演奏された。またウィーン・フィルやベルリン・フィルなども…

RADIO DIRECTOR 清水葉子コラム

ミュージックバード告別の歌

私が長年制作に携わってきたミュージックバードのクラシックチャンネルの番組が2月末で終了となる。衛星放送という特殊な形態はインターネットで気軽に音楽をダウンロードする現代において継続するには難しくなっていたのかもしれない。…

RADIO DIRECTOR 清水葉子コラム

新春の雅楽2024

元日から不穏な災害や事故で心が暗くなりがちだが、新年は始まったばかり。気を取り直してサントリーホールで行われる雅楽の新春コンサートを聴きに行くことにした。 雅楽といえば「越天楽」くらいしか頭に浮かばない私が、昨年もここサ…

RADIO DIRECTOR 清水葉子コラム

聖母マリアの夕べの祈り

2024年の幕開けは能登半島を襲った震災とそれに関連した航空機事故のニュースだった。 入院している実家の父がお正月には家に一時的に戻ることになっていたので、いろいろ段取りを整える必要があって、私も年末はバタバタしていたの…