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Column Feature Tweet Yoko Shimizu

聖母マリアの夕べの祈り

YOKO SHIMIZU COLUMN


ラジオディレクター清水葉子コラム

清水葉子COLUMN
RADIO DIRECTOR 清水葉子

音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。

2024年の幕開けは能登半島を襲った震災とそれに関連した航空機事故のニュースだった。

入院している実家の父がお正月には家に一時的に戻ることになっていたので、いろいろ段取りを整える必要があって、私も年末はバタバタしていたのだが、それでも例年通り大晦日には簡単なお節料理を作って、ひとまず自宅で年明けを迎えたその時だった。日が傾きかける頃、東京でも少なからず揺れを感じた。即座にテレビから流れる緊急地震速報。一気に不安な気持ちになる。仕事関係の知り合いが石川県に里帰りしていることがわかり、無事が確認できてホッとしたのも束の間、報道される被害がだんだんと大きくなるにつれて、担当している防災番組の7日の放送分について再編集の必要性を感じてきた。急遽出演者に連絡をとり、冒頭のコメントをスタジオで録り直すことにする。災害は時と場所を選ばない。正月特番を取り止めにして臨時ニュースを流すメディアも多かった。

被災した地元のコミュニティFM局も大変な状況の中、奮闘している様子がSNSなどで伝わってきた。被害の様子はやはり映像だと圧倒的な情報量で伝わる。しかし直後から必要となる生活する上でのきめ細かな情報は、地元をよく知るコミュニティFM局が音声で、被災した人々と同じ立場で届けることができる。しかも電波という最小限のエネルギーで。避難先などで不安な思いを抱える人も、ラジオから聴こえる彼らの声に大いに救われるに違いない。

日本中が能登半島に思いを馳せていたちょうどその時期、古楽アンサンブル、アントネッロの定期公演が川口リリアホールで予定されていた。昨年11月末にもアントネッロのヘンデルの「メサイア」の公演があり、私はその素晴らしい演奏に深い感動を与えられたのだが、今回の演目は奇しくもモンテヴェルディの傑作、「聖母マリアの夕べの祈り」である。

icon-youtube-play ヘンデル :「メサイア」より (アントネッロ)

アントネッロといえばこの作品と深い繋がりがある。主宰する指揮者の濱田芳通さんは現東京音楽大学の創立者を曽祖父に持ち、音楽理論家で作曲家、指揮者でもあった父からこの曲を薦められ、中学生の時からこの曲に魅せられていたという。

クラウディオ・モンテヴェルディは16〜17世紀、ルネサンスからバロックにかけて活躍したイタリアの作曲家。弦楽器の製造でも有名なクレモナに生まれ、彼自身もヴィオラ・ダ・ガンバを演奏し、マントヴァ公国の宮廷楽長や、ヴェネツィアの聖マルコ大聖堂の楽長を務めた。「聖母マリアの夕べの祈り」は彼の最もよく知られた作品の一つだが、作曲された経緯や成り立ちは謎に満ちている部分も多い。カトリックのミサである晩課に基づく教会音楽だが、この時代としてはかなり大規模な作品である。高い技術を要求される声楽を伴い、尚且つ世俗的な要素も含まれている。

録音ではいくつか著名な団体による演奏があり、私もそれらを聴くことはあったが、生の演奏で聴いたのはそれこそアントネッロの演奏が最初だったと思う。2007年の目白にある東京カテドラル聖マリア大聖堂での公演。カトリック教会で聴く「聖母マリア…」というシチュエーションにも魅了されたわけだが、教会の残響の豊かさが宗教的作品としての雰囲気を一層盛り上げていた。ただし音楽的なテクスチャーを聴き分けるにはいささか難しかった。それでも、まるで響きの塊となった神秘的な合唱に強烈な印象が残っている。あれから17年という月日に驚くが、その間に若手の優秀な古楽演奏家が何人も加入し、声楽のソリストたちも精鋭が集まった今回の公演は全く印象が違う。川口リリアホールのすっきりとした音響は、全体としての構成から細部の音型まで詳にしてくれて、細かい装飾音も聴き取りやすい。モンテヴェルディの作品としてのクオリティと演奏の質の高さをダイレクトに感じられた。ちなみにここで聴けるのは2年前にコロナ禍で行われた同じ東京カテドラルでの演奏である。

icon-youtube-play モンテヴェルディ:「聖母マリアの夕べの祈り」より(アントネッロ)

また合唱で歌われる詩篇の前に挿入されるアンティフォナ(交唱)には聖歌の「聖マリアよ、この世の不幸に思いをめぐらせてください…」という歌詞があり、この状況下に皆、はっとさせられたのではないか。「祈り」の歌ではあるものの、何より濱田さんの生み出す音楽は、モンテヴェルディの持つある種の高揚感を希望に満ちた未来へと導くような悦びに溢れていた。前回の「メサイア」を聴いた時にも感じた有機的な愉悦感は、音楽に宿る悦びそのものであり、それはそのまま生命の躍動の光を映し出すような輝きにも似ているのだった。


アントネッロの公演から


アントネッロの公演から

最後に令和6年能登半島地震で亡くなった方々に謹んでお悔やみを申し上げますとともに、被災された方々に心からお見舞いを申し上げます。

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