RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。
東京もいよいよ梅雨入り。朝から大雨でも文句は言えない。しかし予定がクラシック音楽のコンサートとなると、少々恨めしく思える。
この日は夜、トッパンホールでベルチャ・クァルテットのコンサート。室内楽の殿堂と呼ばれるこの素晴らしい音響のホールで弦楽四重奏を聴くのは至福の時を約束されたも同然だが、トッパンホールは飯田橋と江戸川橋の中間にあり、徒歩だとどちらの駅からも10分強かかるというのが玉に瑕である。駅からタクシーでもいいのだが、最近は悪天候だとタクシーもなかなかつかまらない。下手にタクシーをあてにして、結局開演に間に合わない! と慌てて駆けつける、というパターンが何度もあるので、大雨の時ほどさっさと雨支度をして徒歩を決め込んだ方がいいというのが、経験則から学んだことだ。江戸川橋から歩くことにしたのは、高速の高架下を歩けばそれほど雨に濡れずにすむからである。
雨天のコンサートの時は折り畳み傘を利用してさっさとバッグの中に収めてしまった方が、入口の傘スタンドで混み合うのを避けることができる。その場合、大判のタオルと傘を入れるビニール袋の携帯も忘れずに。しかし小さな失敗としては晴雨兼用の傘にしてしまったので、今日の雨には不適切だった。足元もレインブーツと迷ったが、結局きれいめのスニーカーにした。レインブーツは庭仕事みたいになってしまうのでコンサートにはいささか似つかわしくない。髪を一つにまとめ、雨よけにつばが深めの帽子を被る。少しクラシカルな白いレースのブラウスとスカートをコーディネートしたら、何だか昭和初期のおばさんみたいになってしまった。雨に対応したコンサートファッションの難しさを痛感する。
いつもより早めに、コンサートの開始20分前にホールに到着。会場には着席している人はまばらだったが、結局開演5分前になると俄かに人が増え、空席はほとんどなくなった。ベルチャ・クァルテットの人気の高さが伺える。
今や中堅となったベルチャ・クァルテットは東欧の実力派クァルテット、というイメージを持っていたが、現在はヴァイオリンに韓国系オーストラリア人のカン・スヨン、チェロにフランスのアントワーヌ・レデルランを加え、多国籍な面々である。室内楽の世界もどんどん多様性が進んでいる。舞台に4人が登場し椅子に腰掛けスタンバイすると、奏者同志の距離感が心なしかいつもより近いように感じる。客席からの視覚のせいなのだろうか?
今回の動画は現在のメンバーとは異なり、ヴィオラとチェロの位置も違うが、見事なアンサンブルはより進化して健在だ。疾走感もあるが、若いクァルテットのように勢いでスリリングに駆け抜ける、というわけではない。ごくごく自然にアンサンブルが溶け合い、決して四角四面の演奏ではなく、音楽そのものもきちんと捉えられ実にバランスの良い演奏だ。4人の音楽的方向性がきっちりとシンクロしていなければこのような演奏は生まれてこないだろう。ある程度キャリアを積んだクァルテットでもこれは難しい。録音でも相当弾き込んでいるプログラムであり、奏者同士の距離や位置も実際に呼吸を合わせることを熟慮してのことなのかもしれない。
今夜はベートーヴェンでブリテンを挟むというプログラム。まずはベートーヴェンの初期から中期へ差し掛かるOp.18の第4番。まだ古典派らしい古き良き優雅な楽想が残る。生き生きとした音楽の中に若きベートーヴェンの作曲家としての自信と、ハ短調という運命的な調性で書かれた中に迫り来る人生の苦難も微かに連想させる。
ベートーヴェン:弦楽重奏曲第4番ハ短調Op18-4より
続いてブリテンの最晩年に書かれた弦楽四重奏曲第3番。私はブリテンの渋い作風がわりと好みである。全5楽章がそれぞれ個性的な構成を持っていて凝った作りになっているせいか、退屈することなく全曲を聴き通せる。印象的だったのは「ソロ」と題された第3楽章。第1ヴァイオリンを中心に室内協奏的に展開され、20世紀の作曲家でありながらブリテンの新古典主義的な音楽性をも感じられる。ここで休憩となった。
ブリテン:弦楽四重奏曲第3番:Solo
後半はベートーヴェン後期のOp.127の第12番。充実の作曲期時代の作品はじっくりと耳を傾けると斬新な構成と和声に驚かされる。内声の動きもとても細やかで、第2楽章では中音域のパートに揺れ動くベートーヴェンの深い心情を感じさせる。ベルチャ・クァルテットは第1ヴァイオリンのコリーナ・ベルチャの名が冠されていることからも、彼女の天衣無縫に歌うヴァイオリンが魅力のひとつではあるが、名器アマティを使用したヴィオラの慈悲深い音色が時々に印象深い。
ベートーヴェン:弦楽重奏曲第12番変ホ長調Op127より
全曲を通して緊密なアンサンブルは職人の手仕事の織物のような見事さ。それでいて鮮度の高い作品の魅力を感じさせるこのベルチャ・クァルテットの安定感は、多くのファンを惹きつけてやまない。
アンコールはドビュッシー。チェロのレデルランが日本語で紹介し、弦楽四重奏曲Op.10の第3楽章を瑞々しく聴かせた。
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