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RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。
久しぶりのMETライブビューイングは今季最後の演目、プッチーニの「蝶々夫人」である。長崎を舞台に日本人女性を主人公にしたこの作品、「ある晴れた日に」など有名なアリアもあり、オペラといえば「蝶々夫人」を思い浮かべる人も多いに違いない。古くは日本のオペラ歌手の草分け、三浦環が世界でタイトルロールを演じ、日本のオペラの歴史とも関わりが深い。
「ある晴れた日に」三浦環
今回主役の蝶々さんを演じるのは、これがMETデビューとなった、リトアニアのソプラノ、アスミク・グリゴリアン。2018年のザルツブルク音楽祭で「サロメ」を演じ、世界中にその名を轟かせた。意志の強そうな美貌にショートヘア、白いドレス。これまでの蠱惑的なサロメのイメージを覆し、処女性を強調したエキセントリックな魅力を放っていた。ロメオ・カステルッチによる奇抜な演出もあったが、この時のグリゴリアンの印象は鮮烈だった。「サロメ」といえば「7つのヴェールの踊り」が見せ場のひとつだが、踊らないサロメというのもこの演出の特筆すべきところ。舞台でうずくまるサロメの存在感は、それだけで彼女の周囲に近寄りがたいような強烈な磁場を作っていた。
R.シュトラウス:歌劇「サロメ」(ザルツブルク音楽祭2018)
その後グリゴリアンは来日して東京交響楽団と演奏会形式でやはり「サロメ」を歌った。私もライブで聴いたのだが、ザルツブルクの時とは正反対の黒のドレスで舞台に登場したグリゴリアンは、一見静謐なイメージ。しかし、いざ音楽が始まると完全にオーラの輝きが違った。透き通る美しい歌声は同時に強靭な響きを持っており、客席後方にいた私のところまで真っ直ぐに届く。その生命力溢れるパフォーマンスに釘付けになった私は、今回最後のMETライブビューイングに彼女の名前を見つけて、是が非でも観に行こうと心に決めていたのだ。
それにしても最近のMETは非常に意欲的だ。グリゴリアンのような才能溢れる歌手をはじめ人種や性別の壁を超えたキャスティング、現代における社会問題をテーマにした新作オペラをオープニングに持ってくるなど、実に革新的である。「蝶々夫人」では中国系の女性指揮者、シャン・ジャンがタクトを振る。その少し前の「つばめ」でも女性指揮者S.スカップッチを登用し、もはや日本でも女性指揮者の活躍は珍しくないが、ようやくこのような時代が到来したのだな、と感慨深い。また幕間では合唱指揮者のD.パルンボが引退するということでインタビューを受けていた。20年近いMETでの仕事の中で「最も印象に残ったプログラムは?」と総裁のP.ゲルブに訊かれた彼が、フィリップ・グラスやジョン・アダムズ作品を挙げていたのは驚いた。過去の栄光にしがみつくのではなく、芸術活動もすべからく前身あるのみ、という姿勢を見せてくれた彼に敬意を表したい。
ジョン・アダムズ:歌劇「エル・ニーニョ」(METオペラ)
さて、「蝶々夫人」である。日本が舞台となると、どうしても日本人としては、その描き方に点が辛くなってしまう。今回の演出は何度か本場METでも上演されている定番だが、個人的には好みとは言い難い。カラフルな色彩感と障子を効果的に使った舞台の見せ方にはところどころでセンスを感じたものの、文楽のような子どものからくり人形は動きはリアルで繊細なのだが少々グロテスクに感じる。衣装も時代考証的に辻褄が合っていない。これに関しては衣装のH.フェンも「想像の世界だから……」というエクスキューズをインタビューの中で語っていたけれども。外国人が日本的なモチーフを独自に解釈することで生じるもやもやとした違和感。そういえばハリウッドセレブのキム・カーダシアンが自身のアンダーウェアのブランドを立ち上げ、「キモノ」と名付けた時や、ファッションショーでヨーロッパ人のモデルにドレッドヘアを施した時は「文化の盗用」などという厳しい意見が出たことがあるが、オペラの場合はそれ自体が芸術的創造だからそれには当たらないのだろうか。その境界線は何だろうと考えてしまった。
しかし総じて歌手陣は素晴らしい歌唱と演技を披露してくれた。スズキ役のエリザベス・ドゥショングの深い声はとても印象深い。もう一人最近METデビューしたテノールのジョナサン・テテルマンもピンカートンという役柄に反して、誠実な歌い方に好感を持てる。グリゴリアンは第一幕が終わったところで舞台裏でインタビューに応じた。両親ともオペラ歌手で、特に父親はマリインスキーではスターテノールとして活躍したゲガム・グリゴリアン。舞台袖から歩いてくるだけでその姿に華があるのはそんな遺伝子も受け継いでいるのかもしれない。「役の人生を生きる」という、まるで北島マヤのような台詞が自然に出てくるのも頼もしい。
プッチーニ:歌劇「蝶々夫人」(METオペラ)
さまざまな役柄を演じるポテンシャルはとどまるところを知らない。ザルツブルクで話題になる前には「ヴォツェック」のマリーを演じて評判になっていたそうだが、個人的にはエキセントリックな役柄の方がかえって彼女の魅力を堪能できそうだ。今、推しの存在、アスミク・グリゴリアンに大注目である。
ベルク:歌劇「ヴォツェック」(ケルン・オペラ)
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