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Dilemma

Column Feature Tweet Yoko Shimizu

映画『チャイコフスキーの妻』

YOKO SHIMIZU COLUMN


ラジオディレクター清水葉子コラム

清水葉子COLUMN
RADIO DIRECTOR 清水葉子

音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。

映画『チャイコフスキーの妻』というタイトルを見て、「はて、チャイコフスキーは生涯独身じゃなかった?」と私は頭の中で呟いた。『白鳥の湖』『くるみ割り人形』などのバレエ曲で知られるロシアの作曲家、チャイコフスキー。これまであまり知られることのなかった彼の私生活をフィクションではあるが史実に基づいて制作されたこの映画は、その妻アントニーナの目線で描かれている。

チャイコフスキーが同性愛者だったということはよく知られている。現代では珍しいことでもなく、それをオープンにしている音楽家も多い。しかし19世紀末の帝政ロシア時代において、一般的にはやはりタブーであった。

地方貴族の娘、アントニーナは親戚の家で出会った年上のチャイコフスキーに一目惚れし、熱烈な恋文を書く。一度は素っ気なく振られてしまうのだが諦めきれない。思いの丈を綴ったアントニーナの二通目の手紙を受け取ったチャイコフスキーは「静かで穏やかな兄妹のような愛」を前提についに結婚を承諾する。

このエピソードには思い当たることがある。チャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」のワンシーン。少女タチヤーナが手紙で愛を告白し、オネーギンがそれを冷たく拒絶する有名な〈手紙の場〉。チャイコフスキーがオネーギンのような立場となったこの時期に作曲していたオペラだったというのは、解説を読んで初めて知ったが非常に興味をそそられる。オペラではその後、美しき人妻としてオネーギンの前に現れたタチアーナに今度は男の方が恋焦がれる、という展開になるのだが、現実は違った。

icon-youtube-play チャイコフスキー:歌劇『エフゲニー・オネーギン』より〈手紙の場)

作曲家として徐々に名声を得ていたこの頃のチャイコフスキーは、おそらく自身の世間体のために彼女の求婚を受け入れた。しかし同性愛者で芸術家である彼にとって結婚生活はストレスの連続、鬱状態となり家を出て戻らなくなってしまう。やがてチャイコフスキーの弟アナトリーと親友であるニコライ・ルビンシテインがやって来て、アントニーナに離婚を促す。彼の妹からもチャイコフスキーが同性愛者だという事実を聞かされ、アントニーナの愛は完全に行き場を失ってしまう。孤立して精神の安定を欠き、常軌を逸した行動と彼女の妄想が入り混じり、スクリーンは狂気の世界となっていく。

監督のキリル・セレブレンニコフは語る。この時代は同性愛者への差別よりも女性への差別の方が著しく、離婚をするには大変な手続きが必要だった。これまでチャイコフスキーの妻に関しては僅かな資料しかなかったが、映画でのアントニーナの台詞は実際の彼女の言葉に基づくものだという。国が誇る偉大な作曲家という、神聖化されたチャイコフスキーの人物像を強調すればするほど、結婚生活を破綻させたのは「悪妻」のせい、ということになってしまうのは当然だ。

アントニーナは離婚の交渉人である担当弁護士と関係を持ち、彼との間に子どもを三人産むことになるが、子どもたちは皆施設に送られることになる。アントニーナにとって不幸だったのは現代でいうところの究極の「推し」のような存在である作曲家と夫婦になってしまったこと。映画の中には宗教的な描写も多く、チャイコフスキーは彼女にとっての「偶像」だったことを示唆している。

そう、この映画は敢えて断言すると、音楽映画ではない。チャイコフスキーの素晴らしい音楽はところどころ挿入されているが、あくまでストーリーの中の必然的な文脈に過ぎず、ひょっとしたらそれを物足りないと思う音楽ファンもいるかもしれない。もちろんセレブレンニコフ監督は音楽やオペラ、ダンスなどに造詣が深いのだが(実際映画の中でもダンスが登場する)、ここでは作曲家チャイコフスキーの音楽よりも、その犠牲となった一人の女性の破滅的な人生を時代とともにクローズアップしているのはこれまでになかった切り口といえるだろう。

icon-youtube-play チャイコフスキー:『四季』より「1月 炉端で」

しかし女性目線で観ても軽率に結婚を承諾したチャイコフスキーの偽善を責めることはできない。下級貴族出身で資産を持たなかった彼は、音楽家として生計を立てるのも難しかった。同性愛であることをオープンにできない時代、女性が自分の権利を主張できない時代、そうした時代の不幸な結婚から生まれたチャイコフスキーの美しくドラマティックな音楽を、私はこれからしばらく複雑な思いで聴くことになりそうだ。

監督が「演劇的」と称するこの19世紀末。豪華絢爛な衣装と映像美はそれこそオペラのようで一見の価値がある。華やかな劇場やレストランの裏には貧しい物乞いが暮らすうらぶれた街角があり、映像には薄暗い室内と燃える炎が度々映し出される。その対比がロシアという国の運命とその後の歴史を暗示しているようにも思えた。

アントニーナを演じたアリョーナ・ミハイロワの見事な演技と存在感もさることながら、チャイコフスキーを演じたオーディン・ランド・ビロンが若き日の作曲家にそっくりなのも必見である。

映画チャイコフスキーの妻

映画は9月6日(金)より新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座、アップリンク吉祥寺ほかで全国ロードショー。

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