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Dilemma

Column Feature Tweet Yoko Shimizu

真夏のマーラーと震災の記憶

YOKO SHIMIZU COLUMN


ラジオディレクター清水葉子コラム

清水葉子COLUMN
RADIO DIRECTOR 清水葉子

音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。

その日のコンサートは身震いするほど熱狂的なラストだった。

今年は8月になってから地震や台風、自然災害の猛威の予兆が不気味な足音で近づいている。先日宮崎県の日向を襲った震度6弱の地震で、長年懸念されている南海トラフ地震の不安が一気に列島を襲い、その翌日には神奈川県で震度5弱の地震。この時私は都内の実家に帰省していて、この日が誕生日だったベッドに寝たきりの父と高齢の母と一緒だった。何事もなくすんだものの、もっと大きな地震だったら停電などの影響もあっただろう。その可能性を考えると、猛暑の中で二人の健康を維持するのは果たして難しかったかもしれない。

その時サントリーホールでは東京都交響楽団の定期演奏会が行われていた。指揮はダニエル・ハーディング。パイロットとしての顔も持つ彼の来日はコロナ以降久しぶりでもあり、プログラムはお得意のマーラー。私も翌日の公演を聴く予定になっていた。神奈川が震源の地震はちょうどその演奏の最中で起こった。コンサートに行った人の話では第1楽章の途中で客席のスマホの警報があちこちで鳴り始めたという。しかし、演奏は続けられた。

ハーディングといえば新日本フィルハーモニー交響楽団を振るために本拠地のすみだトリフォニーホールで準備をしていた午後2時46分、東日本を襲った未曾有の大地震に遭遇している。交通網はストップし、通信手段も麻痺する中、ハーディングは予定通りマーラーの交響曲第5番を指揮した。1800もの座席を埋めた観客はわずか100人ほどだったという。この時の感動的な演奏は後にテレビドキュメンタリーや小説にもなった。ハーディング自身もこの時の体験がその後の音楽との向き合い方に大きく影響を与えたと語っている。おそらくはハーディングもオーケストラも聴衆もこの日、東日本大震災を想起したに違いない。

翌日、私もサントリーホールへ赴いたが、頭のどこかに演奏中に地震が起こるかもしれない、という不安は拭いきれなかった。都内のコンサートホールのほとんどは耐震基準を満たした頑丈な作りとなっていることを、演奏開始前には必ずアナウンスされる。建物の下敷きとなるようなことにはならないだろうと思われるが、その後すぐに帰宅できるかどうかはわからない。しかし命さえ助かれば、どうにか行動することはできるだろう。小さな覚悟を持って家を出る。

東京都交響楽団定期演奏会
東京都交響楽団定期演奏会

オーケストラのメンバーと、4月から新しく東京都交響楽団のコンサートマスターとなった水谷晃さんが舞台に登場する。そして、指揮者のハーディングとソリストのソプラノ歌手ニカ・ゴリッチが舞台に現れると一際大きな拍手が沸き起こった。

初めはベルクの「7つの初期の歌」。オーストリアの作曲家、読んで字の如くアルバン・ベルクのまだ19世紀後期の面影を湛えた歌曲。レーナウ、シュトルム、リルケなどの詩に基づいた歌曲は、その詩の世界観と相まって、ニカ・ゴリッチの透明度の高い、しかも芯の強い高音が素晴らしく、特に3曲目の「夜鳴きうぐいす」ではその美しさに陶然となった。マーメイドのようなエメラルドグリーンのワンショルダードレスも印象的で、最後の歌「夏の日」にそのイメージが重なる。

icon-youtube-play ベルク:7つの初期の歌

休憩後はいよいよ、マーラーの交響曲第1番「巨人」。何事もなく終わることを祈りながら着席する。

「大地の歌」を除けば9曲あるマーラーの交響曲。その中では合唱を含まない第1番は演奏頻度が高い人気曲だが最近は第5番の方が聴く機会が多く、私にとっては随分と久しぶりの「巨人」である。タイトルはマーラーが愛読していたジャン・パウルの小説「巨人(タイタン)」に由来する。はじめ交響詩として構想されたこともあり、全体的な構成も非常にわかりやすく、マーラー最初の交響曲として音楽的にも若々しい魅力に溢れた作品だ。

icon-youtube-play マーラー:交響曲第1番「巨人」

オーケストラは基本的には対抗配置。しかしコントラバスを舞台左奥に、マーラー作品で重要なホルンやハープを右奥に配置するというシフトで、ハーディングのこだわりを感じる。私は左寄りの席だったので、低音の響きがかなりダイレクトに聴こえ、「巨人」に於けるコントラバスの重要性を改めて感じた。また最後はホルンが立奏してより一層立体的な音響が立ち現れる。

それにしてもハーディングの渾身の熱を持った指揮には圧倒された。その情熱にオケも全身全霊で応える。都響の底力ともいえる見事なダイナミクス。「あの日」を意識したかもしれない指揮者の祈りと想いが最終楽章に強烈に刻み込まれていた。もはや私の感情は一抹の不安から一気に力強い希望に変換され、その温度差で少し目頭が熱くなった。

万雷の拍手喝采。ハーディングはわりとすぐに舞台から去っていった。舞台袖で彼は何を思ったのか。アンコールで再び舞台に呼び戻された彼の表情は笑顔だったが、久しぶりに見たその笑顔は記憶の中よりも少し年齢を感じさせた。そう、東日本大震災からは既に13年が経っているのだった。

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