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Dilemma

Column Feature Tweet Yoko Shimizu

もう一つの『ローエングリン』

YOKO SHIMIZU COLUMN


ラジオディレクター清水葉子コラム

清水葉子COLUMN
RADIO DIRECTOR 清水葉子

音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。

すごいものを観てしまった。聴いてしまったというべきか。いや、全身の感覚を捉えられたという意味では体験したといった方が正しいかもしれない。

なんといっても橋本愛である。近寄りがたいほどの美貌と、どこかエキセントリックな魅力を湛えたこの若い俳優は、宮藤官九郎の脚本によるテレビドラマや映画でも一風変わった個性的な役を演じることが多い。それらの演技を観れば彼女の俳優としての才能は誰もが疑わないところだが、今回の神奈川県民ホール開館50周年記念オペラ第2弾として企画された、サルヴァトーレ・シャリーノのオペラ「ローエングリン」のヒロイン、エルザにキャステイングされたことを知った時、興味を引かれたのはもちろんだが、一般的に言って現代音楽の難解なオペラでは集客が難しいため、話題作りのような側面もあるのだろう、と浅はかな私は思っていた。

この「ローエングリン」というタイトルに普通の音楽好きならばやはりワーグナーをイメージするだろう。伝説を基にワーグナーが自らオペラ台本を書いた「ローエングリン」とは白鳥を曳く小舟に乗ってやってくる騎士の名前である。弟殺しの疑いをかけられ、この騎士に救われて結ばれることになるエルザは、彼の名を問うてはならぬという禁忌を犯してしまうことで悲劇を招く。これが物語の軸なのだが、シャリーノの「ローエングリン」はそのワーグナーのパロディ版といってもいい内容だった。

このパロディ版にはフランスのジュール・ラフォルグによる原作となる小説があって、そこではローエングリンはエルザと出逢った途端に自らの素性を話してしまうのだから、展開が全く逆さまである。白鳥はローエングリンとエルザの初夜の白い枕だったり、エルザが巫女だったり設定も微妙に違う。更にこのオペラではいくつかの場面をコラージュするように入れ替えたりするので、順を追っていけば物語が完結するというわけではない。しかも、エルザは獣や鳥の声を模倣したり、時にはストーリーテラーとなってト書きを読み、ローエングリンの言葉を話したりもする。エルザの一人芝居の上にこのオペラが成り立っているのだ。

icon-youtube-play シャリーノ:オペラ「ローエングリン」

オペラに先立ち、まず「瓦礫のある風景」という器楽作品が演奏された。タイトルからもわかるようにロシアによるウクライナ侵攻をシャリーノの意識を通して描いた作品。演奏は日本のトップ奏者たちが顔を揃える。ノイズ系の音で始まり、不穏な響きの中で唯一フルートがショパンのマズルカの旋律の一部を奏でるが、これは第二次世界大戦で同じ悲劇に見舞われた国、ポーランドの作曲家へのオマージュか。「風と埃」「粉砕」「抹消」という楽章のタイトルがそのイメージをより一層強くさせる。

休憩後にオペラ「ローエングリン」が開演。薄暗い舞台中央に白いチュチュのようなスカートを纏った橋本愛が立つ。それだけで息を呑むような存在感。白い服は初夜を迎える前の巫女の象徴であり、騎士ローエングリンと一体の白鳥でもある。舞台上でゆっくりと、回転した彼女の口から奇妙な息遣いと擬音が発せられる。SNSの投稿で誰かが「痰切りのおっさんのような」という形容がされていたが、言い得て妙な例えだ。…かと思えば少女のような高い声で「私は18歳にもなっていなかった」などと呟く。時に早口言葉のような、ローエングリンの声を発する時は低音、はたまたしゃがれた老婆のような声、とエフェクトを自在にかける。詩人の大崎清夏が修辞を手がける日本語台本も秀逸ながら、これだけ多様な声色を使い分けながら全てが明瞭に聴き取れるのがすごい。

一聴して支離滅裂なこれらの断片的な台詞を覚えるだけでも大変だが、相当稽古を積んだに違いない。音楽にどう合わせているのかも皆目見当がつかない。大体の流れだけ決まっていて、即興に近いのかと思っていたら、声色の高低や強弱、全てが細かに楽譜に指定されているというから驚きである。最終的にリズムに乗せていくのは杉山洋一の指揮一つが頼りだ。

神奈川県民ホール「ローエングリン」チラシ
神奈川県民ホール「ローエングリン」チラシ
神奈川県民ホール「ローエングリン」チラシ

プロローグ、第1〜4場、エピローグと区切りはないが次第に場面が移っていく。物語終盤に舞台後方にベッドが現れ、その枕を抱いて佇むエルザ。既にチュチュのスカートは脱ぎ捨てられており、その姿はまるでいたいけな少女のようでもあるが、ようやくメロディーらしきものを口ずさむ。それは唯一のアリアのようになって聴き入らせる。やがて白い枕は宙を舞っていく……。

この印象的な演出は1987年生まれのダンサーでもある吉開菜央と声のアーティスト、山崎阿弥という二人の女性演出家が手がけたもの。開館50周年記念という大きな企画に若い才能を積極的に起用した神奈川県芸術文化財団もあっぱれだが、公演チケット代は最高でたったの10000円! あまりのコスパの良さに頭が混乱するばかり。一部の現代音楽ファンだけのものにしておくには勿体なさすぎる。摩訶不思議なオペラ「ローエングリン」の日本初演、これは今年の事件だ。

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