洋楽情報・来日アーティスト・セレブファッション情報なら ナンバーシックスティーン

Dilemma

Column Feature Tweet Yoko Shimizu

真夏の『戦争レクイエム』

YOKO SHIMIZU COLUMN


ラジオディレクター清水葉子コラム

清水葉子COLUMN
RADIO DIRECTOR 清水葉子

音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。

東京交響楽団の音楽監督、ジョナサン・ノットが今シーズンで退く。ラインナップを見るとどれも意欲的なプログラムだが、この日はブリテンの「戦争レクイエム」が取り上げられるということで、なかなかライブで聴く機会のない演目でもあり、話題を呼んでいた。これまで演奏会形式のオペラなどでも、声楽付きの大規模なオーケストラ曲の素晴らしい演奏を聴かせてくれたのがこのノットと東響のコンビである。リヒャルト・シュトラウスのシリーズ「サロメ」「エレクトラ」「ばらの騎士」の3公演はいずれも素晴らしいソリストの歌唱ととともに、今でも鮮やかに記憶に蘇るほど印象的だった。7月の連休最終日のマチネーコンサートは猛暑のさなかだったが、期待を胸に携えて真夏のアークヒルズに向かった。

東京交響楽団定期演奏会
東京交響楽団定期演奏会

思えば私が子どもの頃、夏休みになると登校日があって、体育館や教室で戦争の講話や映画などを鑑賞したりしていたが、現在はどうなのだろう。そうした経験は自分自身の中に知らず知らずのうちに染み込んでいて、戦争の実体験こそないものの、真夏になるともはや習慣のように、ごく自然に戦争の悲惨さや平和に想いを馳せている自分がいる。ビルの谷間に照り返す強烈な日差しを受けてふと、そんなことを感じた。

イギリスの作曲家、ベンジャミン・ブリテンもまた平和主義者だった。1913年、父は歯科医師、母はソプラノ歌手という家庭に生まれた彼は、母の影響で幼い頃から音楽に興味を示し、才能を発揮する。奨学金を得てロンドンの王立音楽院で作曲とピアノを学び、卒業後は生活のため、一時期は映画関連の音楽の仕事にも関わっている。やがて第二次世界大戦が勃発。ブリテンは兵役拒否のため、アメリカに渡って創作活動を続けた。

日本との関わりとしては1940年に日本の皇紀2600年を記念した奉祝曲の委嘱を受けて「シンフォニア・ダ・レクイエム」を作曲するが、内容が相応しくないとして日本政府に演奏拒否されてしまう。この曲は1956年に初来日した際にブリテン自身によって日本初演された。またこの時、能の「隅田川」を鑑賞し、深く感銘を受けてオペラ「カーリュー・リヴァー」を作曲している。

icon-youtube-play ブリテン:シンフォニア・ダ・レクイエム

「戦争レクイエム」は第二次世界大戦によって破壊されたコヴェントリー大聖堂の再建を記念して、それより少し後の1960年代に作曲された。第一次世界大戦で戦死した25歳の詩人、ウィルフレッド・オーウェンの詩とラテン語による典礼文をテクストにした、合唱を伴う大規模なオーケストラ付きの作品は、二つの大戦による慰霊と追悼の意味が込められている。この作品でブリテンは、パートナーでもあったテノールのピーター・ピアーズ、ドイツのバリトン、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ、ロシアのソプラノ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤをソリストに起用するつもりだったという。これは第二次世界大戦で主戦国だった国の歌手3人が共演することで、より一層平和的メッセージを持たせる意味もあった。しかし当時は東西冷戦がピークを迎え、ソ連当局によるヴィシネフスカヤの出演許可が降りず、結局1962年の初演はイギリスのソプラノ、ヘザー・ハーパーが歌った。

比較的我々に近い時代を生きたブリテンの音楽は、晦渋ではあるものの、抽象的というよりは音楽として聴きやすく、ダイレクトに耳に響いてくるのが特徴だ。オーウェンの詩は敵として出会ったイギリスとドイツの二人の兵士の対話となっていて、これをテノールとバリトンのソリストが歌う。戦争の生々しさと不条理さが、合唱の祈りとともに聴く者の心に深く突き刺さる。時折り客席後方から聴こえてくる少年合唱の天国的な美しさもどこか寓話的であり、舞台後方のパイプオルガン前に立つソプラノの凛とした高雅さとともに、歌の使い方の巧みさはさすが合唱の伝統を誇るイギリスの作曲家らしい、ブリテンの真骨頂である。

icon-youtube-play ブリテン:戦争レクイエム

また指揮者のジョナサン・ノットの素晴らしい音響のバランス感覚は、ソリストの歌声と大音量のオーケストラを同時に無理なく響かせ、フォルテシモの咆哮から微かなピアニシモの儚さまで説得力を持ち、2階席にいた私のところまで明瞭に聴こえてくる。それでいて全体の音楽は過度に重々しくならず、作品の持つメッセージをストレートに表現するノットに対し、オーケストラも合唱も全幅の信頼を置いていることは明らかで、最後の「アーメン」の静けさとその後の余韻は見事だった。

折しもコンサートの前日は参議院選挙が行われ、分断を助長させるような政党がネット上で特異な選挙運動を展開し、驚くほど多くの票を獲得した。戦後80年という時間経過の中で確実に人々の心は蝕まれてきているのではないか。もやもやとした思いが湧き上がる中、そんなタイミングで聴く「戦争レクイエム」は、単なる定期演奏会とは違う感覚で、私の中に響いた。

清水葉子の最近のコラム
RADIO DIRECTOR 清水葉子コラム

2025秋の来日公演④〜ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

この秋の来日公演、先のコラムでも書いた3公演で(お財布事情的にも)おしまいにするつもりだったのだが、ひょんなことから転がり込んできたチケットにより、突如追加してしまおう。現代若手ナンバーワンの呼び声も高い、フィンランド出…

RADIO DIRECTOR 清水葉子コラム

2025秋の来日公演③〜ロサンゼルス・フィルハーモニック

10月下旬に集中した秋の来日公演の中でダークホースだったのはロサンゼルス・フィルハーモニックだろう。 土地柄ハリウッドとも関係の深いこのオーケストラは、2003年にウォルト・ディズニー・コンサートホールという新たな本拠地…

RADIO DIRECTOR 清水葉子コラム

2025秋の来日公演②〜ウィーン国立歌劇場

この秋の来日公演で最も大きな話題になっているのは9年振りの来日となるウィーン国立歌劇場の引越し公演だろう。指揮者とオーケストラ、歌手陣だけでなく、舞台美術や演出、照明も含めて丸ごとやってくる引越し公演は、招聘元のNBSの…

RADIO DIRECTOR 清水葉子コラム

2025秋の来日公演①〜チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

音楽の秋到来。そして今年は来日公演が大ラッシュ状態である。ところが円安の煽りを受けてチケット代は軒並み高騰している。音楽ファンも厳選してチケットを入手しなければならない。…となると主催側としてはプロモーション活動も非常に…

RADIO DIRECTOR 清水葉子コラム

亡き父を偲ぶ歌

個人的なことを書くが、先月父が亡くなった。父はここ2年余り、ずっと入院していたので、遠からずこの日がやってくることは私も家族も予想はしていた。だから正直なところ、すごくショックというわけではなかった。最近はほぼ1日眠って…