

RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。
2025年8月、新国立劇場で新作オペラ「ナターシャ」が世界初演された。
もともとこれは新国立劇場の大野和士監督による日本人作曲家委嘱シリーズ第3弾としての企画で、作曲は細川俊夫、台本は多和田葉子。二人とも活動拠点がドイツで以前から交流があり、すんなり共作が決まったという。


オペラ「ナターシャ」世界初演
多和田葉子は東京都出身。早稲田大学ではロシア文学を専攻。留学を経てドイツに在住。ドイツ語での著作も多く、詩作や戯曲、多言語の翻訳でも知られる。1993年に『犬婿入り』で芥川賞受賞。近年ノーベル文学賞候補として名前が上がるなど、ヨーロッパでも著名な文筆家である。
一方作曲家の細川俊夫は広島県出身。ベルリン芸術大学では尹伊桑に作曲を学んだ。以降ドイツを拠点に作曲活動を行い、国内外の受賞歴も数多い。現在、ヨーロッパで最も評価の高い日本人作曲家で、能を題材にしたオペラもいくつか作曲している。
私はやはり新国立劇場で行われた細川俊夫のオペラ『松風』を観たが、とても印象深い。能という日本の古典芸能の様式美を損なわず、西洋音楽を象徴するオペラという手法で表現してなお、見事に『松風』の世界を昇華していた。今回は細川氏にとって8作目の新制作のオペラが日本で世界初演ということで、期待が高まる。
オペラ「松風」ダイジェストby新国立劇場公式YouTubeより
このタイトルの「ナターシャ」がウクライナ女性という設定は、世界を脅かす戦争へのアンチテーゼとしての位置付けありきなのかと思いきや、オペラの構想開始は2019年なのでロシアによる軍事侵攻よりも前である。そのため政治色を抑えるために、現代人が抱える様々な社会問題を〈地獄〉として見せることで、人間の普遍的なテーマへと導いていく内容に修正されたという。
休憩を含め2時間半強のオペラは細川作品としては比較的長い。思わず力が入って全体の尺が長くなってしまった、というのが作曲家としての本音らしいが、全幕は序章の他に7つの地獄がある。「森林地獄」「快楽地獄」「洪水地獄」「ビジネス地獄」「沼地獄」「炎上地獄」「旱魃地獄」。視覚的な場面転換とともに様々な地獄=現代が抱える問題を提示する。この構成は音楽も演出もそれぞれ個性の見せどころでもあり、全体像を捉えやすいという効果もあった。
序奏は「海」から始まる。生命の源でもあり、大いなる自然の象徴。被災者と思しき日本人男性アラト(山下裕賀)と、ドイツ語を話すウクライナの女性ナターシャ(イルゼ・エーレンス)。言葉は異なるもののお互い傷ついた心を通わせる二人は、メフィストの孫(クリスティアン・ミードル)とともに地獄への旅に出る。
「森林地獄」では無機質で病院のような廊下と、グロテスクな仄暗い森の背景。酸性雨で消滅した森は瀕死の状態なのだろうか。コーラスが重なりそこには多言語の朗読が響き渡る。
「快楽地獄」では人々が狂乱する中で、音楽がエレキギター(山田岳)とサックス(大石将紀)の即興演奏で表現されるのだが、ここではなんと調性音楽が使われている。実はこのタイトルを見た時、私はパゾリーニの映画「ソドムの市」を思い出してしまった。思えばこの映画も、〈地獄めぐり〉の構成になっているのだが、比べるとこのオペラはかなり上品にデフォルメされた「快楽地獄」かもしれない。ポップ歌手役として歌うのは森谷真理と冨平安希子。二人の鮮やかな衣装も印象的。
「洪水地獄」では再びアラトとナターシャが調性感のある重唱を聴かせ、「ビジネス地獄」ではミニマルミュージックが経済至上主義をコミカルに揶揄する。$のマークの仮面を被ったビジネスマンたちが登場し「じゃらじゃら」「ばりばり」「しゃらしゃら」といった擬音を使って歌う。ここで私はまたNHKのかつての娯楽番組「連想ゲーム」を思い出し、日本語の面白さを実感する。
「沼地獄」はデモ隊の群衆が登場。人間が集団になり正義を掲げると危うさと凶暴性を増す。続く「炎上地獄」は山林火災のイメージだが、拡大解釈すれば現代ではネット上の「炎上」と捉えることも不可能ではないだろう。アラトとナターシャはそれぞれ日本語、ドイツ語で歌うが、言語が違うとこれだけ音楽の印象が変わるということにも改めて驚く。ひとつの作品の中に多言語が存在するということはそれだけで多重的な意味を持つが、音楽そのものも多重的になっていく。そしてアリアでは詩人でもある多和田の言葉使いの巧さがいっそう際立つ。テクストのリズムと、言葉の端々に漂う煌めきと深みに唸る。最後の「旱魃地獄」では再び水音が聴こえ、絶望の中から循環する「水」によって果たして地球と人類が浄化される希望へと続くのか。
オペラ「ナターシャ」ダイジェストby新国立劇場公式YouTubeより
このオペラにはいわゆるストーリー、それにリンクするカタルシス的なアリア、盛り上がる合唱といった要素はない。舞台一面に映し出されるプロジェクションマッピング、エフェクトを加えた電子音響、ダンテの「神曲」と同じ構成という古典からのアプローチ、そして多言語によるリブレット。それらは世界平和や環境問題、ダイバーシティなど、壮大なテーマで観客に問いかける。現代音楽のオペラという難解なツールは一見遠回りした表現方法かもしれないが、複雑なその手法を取り除けば後に残るのは、実はとても明快でシンプルな現世への解答なのだ。歌手、オーケストラ、そして大野和士の指揮による真摯な演奏とともに「ナターシャ」は現代オペラの最先端を示している。
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