

RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。
先日、サントリー音楽賞を受賞した作曲家、近藤譲のオペラ『羽衣』が日本初演された。タイトルの通り、これは能を素材とした作品である。前回のコラムで取り上げた細川俊夫もそうだが、日本人作曲家にとって(最近は欧米の作曲家にも波及しているが)日本の伝統文化〈能〉は、創作におけるインスピレーションの源となっている。一切の無駄を削ぎ落とした究極の舞台装置。簡素な構成でありながら、そこに立ち現れる幽玄の世界と死生観。その果てしない深みは、西洋文化にない味わいだろう。それを現代の音楽としてどのように再構築できるのか、アプローチは様々で、作曲家だけでなく我々聴き手も大いに興味をそそられるところだ。


サントリー音楽賞記念コンサート
さてサントリー音楽賞は公益財団法人サントリー芸術財団が1969 年に創設。日本における洋楽の振興を目的に、毎年、洋楽文化の発展にもっとも功績のあった個人、または団体を顕彰する。またこの受賞者はサントリーホールで記念演奏会を開催することができる。
歴代受賞者は鍵盤楽器奏者の小林道夫、現在のサントリーホール館長であるチェリストの堤剛や、日本を代表する指揮者の秋山和義や小澤征爾。柴田南雄、武満徹、そして野平一郎、細川俊夫といった作曲家も多い。その顔ぶれをみれば、日本の音楽界の歴史を辿ることに等しい。またサントリーという企業の芸術分野における貢献度にも感服する。しかしながら作曲家として国内外で評価されている近藤譲が今年受賞というのは、やや遅過ぎる印象さえある。
近藤譲は1947年生まれ。東京藝術大学音楽学部作曲科を卒業。ロックフェラー3世財団より奨学金を受け、ニューヨークに滞在。その後はカナダやイギリスをはじめとする欧米で教鞭をとりながら活躍。1974年に「線の音楽」と題するLPと、後に同名の著書を発表。これは作曲についての彼の思考を具現化したもので、当時の音楽界に大きな影響を与えた。これは2014年にアルテスパブリッシングから復刊、同時にLPもコジマ録音より復刻初CD化された。

近藤譲著「線の音楽」(アルテスパブリッシング)

近藤譲CD「線の音楽」(コジマ録音)
実はこの「線の音楽」復刻記念で、担当するラジオ番組に近藤譲さんをゲストにお迎えしたことがあった。当時まだマニアックなクラシック音楽番組を4、5時間もの長尺で制作する余裕があったのだ。そこで近藤さんが番組でかける曲として選んだのが自作のオペラ作品『羽衣』だった。
収録エピソードとしてこんなことがあった。この『羽衣』はオペラなので、舞台上で舞踊のシーンがいくつか挿入されている。これが長いところでは1分以上あり、ラジオという音声メディアで流すと無音で放送事故になってしまう。当時放送していたミュージックバードではクラシック音楽の専門チャンネルだけ、特別に45秒近くの無音をシステム的に許容していたが、それでも間に合わない。当然作曲家ならば、一部とはいえ自作の音源をカットすることに異議を唱えることは想像できた。私は正直どうやって技術のスタッフと折り合いをつけるかまで考えを巡らせていたのだが、近藤さんはこちらよりも先に「多分無音検知に引っかかってしまうでしょうから、適当にカットしていただいて結構です」と仰ったのだ。
これにはディレクターの私も驚いてしまった。アーティストは自分の表現や主張を曲げることを嫌う。しかも今回の公演のプログラムを読んでもわかる通り、この無音部分は音楽的にも作品の一部であることは明白である。しかし近藤さんは作品を紹介する我々のようなメディアの仕事にも理解を示し、対等な立場で調整案を提示してくれた。それだけでなくスタジオでの近藤さんのお話は全てにおいて非常に明快で論理的、聞いているこちらの頭の中まですっきりと整理されていく。
例えば作品のタイトル。近藤さん曰く、「深い意味はなく、作品に対しての記号に過ぎません」と言っていたのが印象的だ。普通は思い入れたっぷりにつけるものではないのだろうか? いわゆる日本人的でウェットな、過剰な情緒感というものが近藤さんにはない。海外で長く活躍され、高く評価されてきた理由もよくわかる気がする。
近藤譲ドキュメンタリー映画(予告編)
話が少々飛ぶが先日、日本の劇伴音楽の第一人者である牛尾憲輔をNHKで特集していた。あの坂本龍一の後継者とも目される人だが、特にアカデミックな音楽教育を受けてきたわけではない。しかしその仕事部屋には現代音楽や作曲理論に関する様々な書物があり、その中に近藤譲の「線の音楽」があったのを私は見逃さなかった。その作曲論は当代随一の人気音楽プロデューサーにとっても教科書のようだ。
日本初演(!)となった受賞記念コンサートは、前口上として『接骨木の3つの歌』というヴァイオリンと打楽器による曲が演奏された。続く『羽衣』は、10年近く前の番組収録時のあの無音部分を、実際にこの目で舞台上の舞踊を観たことで、私の中では大いなるカタルシスがあった。語りと歌と舞踊。楽器こそオーケストラという西洋的なアンサンブルを用いるけれど、フルートが能管と同様に先導役となる。音と無音の世界は同時にこの世とあの世でもあり、聴覚と視覚を行き来する。脳の中でそれらの要素を分解させるような不思議な感覚だった。
まるで織物の糸をはらはらとほぐすように。
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