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Dilemma

Column Feature Tweet Yoko Shimizu

音と香り

YOKO SHIMIZU COLUMN


ラジオディレクター清水葉子コラム

清水葉子COLUMN
RADIO DIRECTOR 清水葉子

フリーランス・ラジオディレクター。TOKYO FMの早朝の音楽番組「SYMPHONIA」、衛星デジタル音楽放送ミュージック・バードでクラシック音楽の番組を多数担当。「ニューディスク・ナビ」「24bitで聴くクラシック」など。趣味は料理と芸術鑑賞。最近はまっているのは筋トレ。(週1回更新予定)

私が通っているジムのトレーナー、K先生の話を年末に書いたが、実はそれ以来忙しくしていて気がつけばトレーニングを3ヶ月もさぼっていた。

いや、正直に言えば自分自身でも身体が重くなっているのを感じていたし、この状態でトレーニングに行くとジムでは最初に体組成計で計測をするので、最悪の記録が残るのが嫌だったのである。いわゆる見て見ぬ振り、というやつだ。しかし行かなければ身体を動かさないのでどんどん筋肉が衰えて代謝が悪くなり、だらしない体型になるのもわかっていた。覚悟を決めて先日、予約を入れたのだった。

早速筋トレ開始。K先生とはストレッチしながら雑談することも多く、それは楽しかったりもするのだが、私がコンサートのために遠方のホールまで足を延ばしたりするのを聞いて、「コンサートホールに匂いってありますか?」と尋ねてきた。これまた音楽関係者と話す時には受けたことのない質問だ。

どういう意図なのかといえば、以前先生がトレーナーとして所属していたスポーツジムには、館内に特定の香りを燻らせていたという。実はこうした手法はあらゆる商業施設で取り入れているらしく、某シュークリームの販売店が殊更にカスタードクリームの匂いを放出している、なんて話も真偽のほどは定かでないが聞いたことがある。いつも訪れる場所の匂いは脳内に記憶され、それと同じ匂いを感じることで親近感を持ち、過去の記憶が良い思い出として残っていれば、よりはっきりした意識を持ち、もし何か気に入った商品を買った記憶があれば、それがまた同じ匂いで再度の購買につながる、ということらしいのだ。それがコンサートホールにもあれば、あの場所で音楽を聴きたい、ということもあり得るのではないか、という。

なるほどK先生は職業柄、人間の身体の特性について常に考えているので、五感がどのように行動に左右するのか、それが身体にどう影響するのか、という視点で考えているようである。私はどちらかというと〈匂い〉よりも〈響き〉の記憶の方がホールにはあるような気がしたのだが、しかし考えてみればどちらも存在は空気である。音は空気の振動であり、そこにある匂いもまた空気である。

幼い頃に遊んだ公園の草の匂いとそこに響いていた子供達の歓声、祖父母の家の懐かしい匂いと古いピアノの音……。音と匂い、それらは確かに過去の記憶と密接に結びついている。音も匂いも同じ作用があるのかもしれない、と思った。

また時に演奏において「匂い立つような音」といった表現を使ったりするが、ふさわしいのは特にフランスの音楽や演奏家のような気がする。そのせいなのか、香水という文化を考えるとそれはフランスで花開いたものでもある。その香料はノート=音符とも呼ぶし、〈匂い〉と〈音〉をそれぞれ芸術に昇華したものも存在する。《香水》と《音楽》である。どうやら両者はとても深い関係性にありそうだ。

そんな《フランス》《香水》《音楽》という3つのキーワードを聞いて私の頭にまっ先に浮かんだのはドビュッシーである。前奏曲集第1集の中の「音と香りは夕暮れの大気に漂う」。タイトルはボードレールの詩「夕べの調べ」の一節から採ったもの。ドビュッシーの音楽というのは独特の色彩を持った空気を纏っている。このピアノ曲も物憂げなメロディーが冒頭にあらわれ、空気のような和音が煙のようにふわふわと舞っていくそれはまさに「匂い立つような」音世界である。

icon-youtube-play ドビュッシー/前奏曲第1巻より「音と香りは夕暮れの大気に漂う」

もうひとつ思い出すのはやはりドビュッシーの『管弦楽のための映像』の『イベリア』から「夜の香り」である。こちらはオーケストラ曲なので弦楽器の夢想的な響きの中に浮かび上がる木管のきかせ方が艶やかで、更に官能的だ。

icon-youtube-play ドビュッシー/『イベリア』より「夜の香り」

嗅覚は五感の中でも最もデリケートなものかもしれない。そしてその記憶は意識の深いところにある。だからこそ時間を経ても色褪せないし、確かなものとなって私たちの中に残る。音楽では歌曲に〈香り〉をテーマにしたものが多いのにも気がついた。フランスだけでなくドイツ歌曲にもたくさんある。そしてそれはほとんどが恋の歌である。

マーラーのリュッケルトの詩による歌曲にも「私は仄かな香りを吸い込んだ」というのがある。アルマと婚約、結婚した時期の作曲でもあり、恋人が手折る菩提樹の枝のかぐわしい香りを吸い込んで幸福感に満たされる、という歌詞には喜びが満ち溢れ、恋という究極の精神的効用によって敏感になる身体の感覚をあらわしている。

icon-youtube-play マーラー/リュッケルト歌曲集より「私は仄かな香りを吸い込んだ」

一方で日本ではフランスと同様に〈香り〉を芸道にした《香道》があるのも忘れてはならない。デリケートな五感を持つ私たち日本人が梅や桜の花の香りに春の到来を感じるのも、また当然のことなのかもしれない。音楽祭も多いこれからの季節。恋をするのは難しくても己の感覚を研ぎ澄ませ、春の匂いと音楽をつかまえに行きたいものである。その時は少しお気に入りの香水も纏わせてみようか。

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