RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。クラシック音楽ソフトのバイヤー時代にラジオにも出演。その後に制作会社を経て、現在はフリーのラジオディレクターとして番組の企画制作に携わる。番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど幅広く活動中。
ある人の友人が「人生最後にはグールドの1981年録音のバッハのゴルトベルク変奏曲を聴きたい」と言ったそうだ。
その話を聞いた真冬の夜、私は池袋の東京芸術劇場でコンサートを聴いてから編集の続きをやるために半蔵門のスタジオに戻ってきたところだった。思ったより時間が遅くなってしまったので残り仕事をやるべきか迷って、ふとそのグールドの81年盤ゴルトベルク変奏曲をスタジオの中で再生してみた。一音一音確かめるように奏でられるアリア。スピーカーから静かに降り注ぐピアノの音に身体を預けると、時間がリタルダンドしたかのように心の澱が少しずつ沈んでいく。
カナダの不世出のピアニスト、グレン・グールドはご存知の通りバッハのゴルトベルク変奏曲を人生で2回録音している。デビューの1955年と亡くなる間際の1981年である。彼の50年の人生を象徴する2つのゴルトベルク。その演奏を改めて聴き比べてみると印象はかなり違う。
私は昔、55年盤の演奏が好きでよく聴いていた。初めて聴いたのは、奇しくもグールドがこの曲を録音した当時と同じ23歳の時だった。耳に飛び込んできたその音に文字通り衝撃を受けた。何という闊達さ、何という疾走感! 全てを凌駕していく自由な感性とタッチはほとんどパンクと言ってもいい。その時から私にとってグレン・グールドは誰よりも特別な存在のピアニストになった。
バッハ:ゴルトベルク変奏曲(1955)byグレン・グールド(P)
ほどなくして彼の晩年の1981年録音があることを知った。どちらが好きかで、よくファンの間では議論となるのだが、グールドが人生を終えた年齢に近付くにつれて、この晩年のゴルトベルクに惹かれる自分を感じていた。デビュー盤に比べると全体としてテンポは遅くなっている他、それぞれの変奏のフレーズもニュアンスの細かい箇所が目立つ。当然テンポが速いと細かい変化は付けにくい。81年盤は噛み締めるようにじっくりと、音を紡いでいるのが分かる。まるでグールドが人生の最後を悟り、残りの時間を愛おしんでいるかのように。
バッハ:ゴルトベルク変奏曲(1981)byグレン・グールド(P)
人気のないスタジオで聴いているうちに涙が滲んできた。人生の最後にこの曲を聴きたい、と言った私の知らない誰かがどんな気持ちでその言葉を発したのか、グールドの演奏を通して伝わってきたからだ。
人生の最後にどんな音楽を聴くか。友人との話の中でそんな話題になった。お互いいろいろ考えてみたが、共通していたのはバッハのマタイ受難曲。しかし長大な曲なのでどの部分をピックアップするか、ということになるとそれぞれ好みが分かれる。友人は冒頭と終曲のコラール、と究極の答え。私は第一部の終曲のコラール「人よ、汝の大いなる罪を悲しめ」が好きだと答えた。
キリストの受難を扱った長大なオラトリオ。その全体を覆う悲愴感の中で、中盤に置かれたこのコラールは、すっと息をつけるような救いのある曲だ。長調で終わるのも好きで、私はキリスト教徒ではないし、犯罪者でもないけれど、人生の最後に赦しを得られるような気がするのである。
バッハ:マタイ受難曲
ここで書くのは迷ったのだが、長年一緒に番組をやらせていただいた音楽プロデューサーのHさんが先日亡くなったという知らせを受けた。音楽業界ではどちらかというと仕事もプライベートもごっちゃになってしまう人が多い中、珍しく理系の大学出身ということもあるのか、いつもきっちりとしていて、時間や締切りなどにも正確な人だった。それだけにやや厳しいところもあったが、私は非常に仕事がやりやすく、人間として信頼できる人でもあった。スタジオでの収録時に披露されるちょっぴり毒舌まじりの裏話をいつも楽しみにしていた。
現代音楽のスペシャリストでもあったHさんは、まだ日本ではあまり知られていなかった作曲家を紹介したり、凝ったコンセプトのコンサートを企画したり、様々な仕事に携わってこられたが、そんなクールで一匹狼的な印象が強い一方で、時折見せるユーモラスで心優しい素顔も私はたくさん知っている。番組では優秀でも光が当たりづらいアーティストに積極的に声をかけたりもしていた。ゲストに出演していただいた方々とはその後もご縁が繋がっている方も多く、Hさんにはこの場を借りて深く感謝を申し上げたい。それでも68歳という若過ぎる死にはただただ残念という思いを拭いきれないのだが。
最後にHさんの好きだったヤナーチェクのオペラ「利口な女狐の物語」をお送りしたい。作曲者のヤナーチェク自身が第3幕の森番のエピローグを自らの葬儀で流すことを希望していたという。童話劇と見せかけて死と再生をテーマとするシリアスな本質を持つこのオペラ。ヤナーチェクの人生観にHさんも共感していたのだろうか。
ヤナーチェク:歌劇「利口な女狐の物語」
思えばゴルトベルクもアリアからアリアへ戻ってくる。ヤナーチェクのやや強面の美しい音楽とともに、亡き人のもう一度帰る場所へしばし思いを馳せてみたい。
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