RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。
2月9日の夜、指揮者の小澤征爾の訃報が世界中を駆けめぐった。彼が長く音楽監督を務めたボストン交響楽団では追悼コメントとともに、バッハのアリアがしめやかにコンサートで演奏された。またウィーン・フィルやベルリン・フィルなどもコメントを出し、私の知り合いの音楽関係者や演奏家たちも小澤氏との個人的な思い出をSNSで投稿し、それらがタイムラインを埋め尽くしていた。
バッハ:G線上のアリアbyボストン交響楽団
私も思わずそのニュースをFacebookでシェアしたが、来るべき時が来てしまった、という思いもあった。近年は病を患い、コンサートのキャンセルも多かったし、指揮活動もごく限定的だった。たまにメディアに顔を見せても往年のエネルギッシュな指揮姿を知る者からすると、かなりその姿は痩せて小さく見えた。しかし、こうして小澤征爾の死が現実のものとなると、誰もが自分自身と音楽との関わりを否応なしに振り返らざるを得ない。小澤征爾とは半世紀近い時代を象徴するにふさわしい指揮者であり、日本の誇りであり、音楽的指標でもあった。
小澤征爾は1935年、満州生まれ。桐朋学園で厳しい指導で有名な齋藤秀雄から指揮法を学び、やがてフランスに渡りブザンソン国際指揮者コンクールで一位を獲得。世界的指揮者のカラヤンやバーンスタインの薫陶を受ける。この頃、新進気鋭の小澤と日本のオーケストラの雄、NHK交響楽団との契約がされたが上手くいかず、団員からボイコットされるという衝撃的な、俗に言う「N響事件」が起こる。これを機に彼は日本を離れ、アメリカにその活躍の場を求めていく。
悔しさがバネになった。それからの活躍は留まることを知らない。タングルウッド音楽祭の音楽監督、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督と次々に重要ポストを歴任、日本では新日本フィルハーモニー交響楽団を創立し、同楽団の桂冠名誉指揮者となる。アメリカでは名門ボストン交響楽団の音楽監督を30年近く務め、多くの録音活動も行った。ヨーロッパでの出演も多くなり、2002年にウィーン・フィルのニューイヤーコンサートに日本人として初登場、その後は伝統あるウィーン国立歌劇場の音楽監督にも就任。まさに名実ともに「世界のオザワ」となっていった。
母校の桐朋学園の恩師、齋藤秀雄の名を冠したサイトウ・キネン・オーケストラの活動も忘れてはならない。世界で活躍する優秀なこの齋藤門下生が集まって結成したスペシャル・オーケストラはヨーロッパでも大評判となった。1992年からはこの音楽監督としても積極的に活動する。彼らの十八番だったのがチャイコフスキーの「弦楽セレナード」である。これは当時、人材派遣会社のCM音楽として使われたこともあり、一躍有名曲になった。この活動は「サイトウ・キネン・フェスティヴァル松本」という名称で音楽祭へと発展していくことになる。後に「セイジ・オザワ松本フェスティヴァル」と名称を変更し、昨年は小澤の盟友、ジョン・ウィリアムズが来日してオケを指揮した。ちなみにこの時のチケットはなんと14倍もの争奪戦となった。
チャイコフスキー :弦楽セレナードbySKO
私が音楽に関わる仕事を始めた時に、小澤征爾は既に「世界のオザワ」だった。
今でこそ世界中の歌劇場や主要オーケストラの音楽監督となる日本人指揮者は数多いが、当時やはり小澤征爾の存在が圧倒的だったのは、海外レーベルとの録音活動も大きく影響していたと思う。音楽メディアが全盛期を迎え、世界的にもクラシック音楽が一番華やかで輝いていた時代だったかもしれない。小澤はとにかくCDの発売が多かった。古典から現代まで彼が幅広い楽曲レパートリーを持ち、天性の朗らかさで、あらゆる国のオーケストラや演奏家と友好な関係を築いてきたことも理由の一つだろう。確執のあったN響とも最終的には和解し、その後指揮台にのぼっている。
私もミュージックバードでは様々なタイミングで小澤特番を制作してきた。番組が存続していれば、それこそ追悼番組を制作していただろう。しかし残念ながらそれも2月末で終了となる。そんな時期に「世界のオザワ」が亡くなったことは、クラシック音楽の一時代の終焉を感じさせる。カラヤン、バーンスタインの二大巨匠が亡くなった時も大きな喪失感はあったが、我々日本人のアイデンティティーとしての小澤征爾は、やはり圧倒的な存在感を持っていた。
訃報を受けてサイトウ・キネンオーケストラとの演奏を久しぶりに聴いてみる。ベートーヴェンの交響曲第7番。若い頃から颯爽とした指揮で、生き生きとした音楽を作り上げるのが特徴の小澤征爾だが、この演奏の若々しさはどうだろう。メランコリックな表情が真骨頂のブラームスの交響曲第2番では、美しい起伏を持って歌わせるそのフレージングも実に巧みだ。決してそこに暗い絶望はない。若き日の悔しさをバネに世界へ羽ばたいた指揮者は、常に前を向き続けていたのかもしれない。残された録音にはそんな音楽が聴こえてくるのだった。
ベートーヴェン:交響曲第7番bySKO
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