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Dilemma

Column Feature Tweet Yoko Shimizu

薪能のすすめ

YOKO SHIMIZU COLUMN


ラジオディレクター清水葉子コラム

清水葉子COLUMN
RADIO DIRECTOR 清水葉子

音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。

東京ではいつもより遅れて3月も終わりになる頃、ようやく桜が開花した。毎年私がお花見がてら訪れているのが靖國神社の「夜桜能」。4月の初めに靖國神社境内にある能楽堂で開催されているもので、これは芝公園にあった能楽堂を明治36年に移築、東京最古の歴史を持つ由緒あるものだそうだ。

九段下の駅から向かうと大鳥居の先では例年桜祭りが催されていて、いくつも屋台が並ぶ。夕刻には花見のお酒を楽しむ人もいて、その喧騒を抜けると普段は閉じられている扉が開き、一転して厳かな雰囲気に包まれる。扉の先、右手にある古びた能舞台を桜の木の下から鑑賞するのはまるで時代をタイムスリップしたかのような心地になる。

靖國神社境内
靖國神社境内

野外なので仕方ないことではあるが、春は天気が変わりやすいのでその影響も受ける。夜は結構冷えるし、途中で雨に降られたり、はたまた開花が早過ぎて葉桜になってしまったことも。雨で別会場での鑑賞となった年もあった。薪能の客席のキャパシティと同等の会場が用意されているが、能楽堂では席数が足りない。民間や自治体のホールでの代替公演となるので、気分は天と地ほど違いがある。タイミングが合えば、散り際で桜吹雪が能舞台に舞い、現世にいながらにして幽玄の世界を垣間見るような、それはそれは美しい光景と遭遇できる。それが忘れられず、通い始めてそろそろ10年くらいになるが、そんな光景に出会ったのは2、3度だから結構ギャンブルに近いかもしれない。

靖國神社能楽堂
靖國神社能楽堂

薪能はイベント色が強く、普段能を観ない人もやって来る。外国人や若い人も多く見かけた。特に篝火が灯ると幻想的な雰囲気はより一層増し、近年はSNSでその光景を写真や動画に収める人にも人気が高いようである。

まずは火入れの儀式。神社の場合、宮司が松明を持って篝火に火を入れる。ちなみに以前、徳川の菩提寺である芝の増上寺でも薪能が行われていたが、ここでは僧侶が火入れをしていた。曹洞宗特有の派手な袈裟、背景に東京タワーというのも華やかだった。もちろん篝火の灯りだけでは薄暗いので、靖國神社会場では点火の瞬間に絶妙にライトアップするのだが、咲き始めた桜が美しく照らされ、開演への期待が高まる。薪能では前後の演出も重要な要素である。

icon-youtube-play 夜桜能

最初に仕舞「笠の段」と「善知鳥」。仕舞とは一曲の能の一部だけを面・装束や囃子を伴わずに地謡だけで演じる、いわば演奏会形式である。これはクラシックのコンサートでいえば序曲のようなもの。予めプログラムを見てあらすじを頭に入れ、どの場面かを確認して鑑賞。まずは薪能の厳かな雰囲気を味わおう。

その後に狂言「咲嘩(さっか)」。狂言は庶民の日常や説話などを対話と仕草で笑いを表現する。言葉が口語に近いので聞き取りやすく、面も付けないので堅苦しくなく、比較的現代劇の感覚で初めて観る人でも楽しめる。主人に頼まれて連れてきた伯父なる人物が実は「咲嘩」という大盗人だったため、主人は太郎冠者に自分の真似をさせて、招かれざる客を追い返そうとする。しかし太郎冠者は機転が利かず、あまりに素直で愚鈍なので悪人も調子を狂わせる。そのやりとりが可笑しい。太郎冠者は野村萬斎。主人はその息子の野村裕基で親子共演というわけだ。相変わらず若々しい萬斎だが、その芸風はさすがの存在感。

そして最後に能「井筒」。これは「筒井筒井筒にかけしまろが丈おひにけらしな妹みざるまに」という伊勢物語の幼馴染との恋の歌に準えた世阿弥の名作。ここでは夫である在原業平から贈られた歌に紀有常の娘が、「くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずして誰があぐべき」と返して恋愛が成就し、夫婦となったということを、今では亡霊となった彼女が懐かしんで語る。ただそれだけの情景なのだが、井筒(井戸)の前に佇む女の切ない恋心が伝わってくる。これぞ能、といった格調高い作品である。今回のシテは田崎隆三。宝生流の名役者であり、この夜桜能を主催する中心人物でもある。ちなみに能の流派は現在五流あり、それぞれに少しずつ舞や謡の個性、演出の違いなどがある。

薪能の発祥は奈良。今年は仕事の都合で行くことは叶わないのだが、昨年ようやく念願だった春日大社の薪御能を観に行った。が、しかしこの時は土砂降りの雨。午前と午後の二部制になっていて、午前中の春日大社での「翁」は屋根のある舞殿で行われた。複数の翁が登場するという珍しい金春流の雅な舞を堪能できた。しかも壁はないので降り頻る雨の音がBGMとなり、思いがけず風情ある情景に出会えた。しかし夕刻に行われるはずだった興福寺南大門での公演は雨が止まず、市内の公民館での開催となり、少々残念。

雨の奈良
雨の奈良

春日大社の舞殿
春日大社の舞殿

若い頃は能のガイドブックを片手に全国の薪能を行脚していた私。年寄りくさいと言われた趣味もそろそろ年相応になってきた。近年はインターネットで気軽に各地の薪能の情報を入手することが可能なので、今年も観光を兼ねていくつか観てみたいと思っている。

icon-youtube-play 薪御能

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