

RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。
個人的に毎年楽しみにしているMETライブビューイングが今年も開幕した。
昨年から1作品少なくなって全8作品となっているのは、円安による買い付けの日本側の問題なのか、それとも本国のアメリカにおける制作の問題なのかは不明だが、ファンはムビチケでお得に鑑賞するのがお約束なので、ムビチケは3枚セット、9作品ならばぴったりなのだが、その点は少々残念である。またラインナップも新作は1作品のみ。新演出はいくつかあるものの、伝統的な既存のオペラ作品のみなのでこれもちょっと寂しい感じがする。
さて多少の不満はともかく、開幕作品はベルカント・オペラの代表作、ベッリーニの「夢遊病の娘」である。タイトルは「夢遊病の女」の方が一般的かもしれないが、今回のプログラムでは「娘」になっている。
「ベルカント」とはイタリア語で「美しい歌」という意味。流れるような旋律と装飾を伴ったアリアを重視し、その歌唱を中心にして物語が進んでいくのがベルカント・オペラ。18〜19世紀に発展した作曲様式の一つでロッシーニやベッリーニなどが代表的な作曲家である。
主役のアミーナを今、絶頂期にあるコロラトゥーラソプラノのネイディーン・シエラが歌う。既にMETでも何作品かに出演しているが、チャーミングな大きな瞳と、自在に高音を操る驚異的なテクニック、どこまでも澄んだ美声が圧倒的。豊かな表情もアミーナのような純粋な乙女役がよく似合う彼女はオペラ界のアイドルといった存在だろう。
ネイディーン・シエラ(S)
それにしてもアミーナが夢遊病であることで貞節に関して誤解をし、その裏切りをなじって婚約を破棄、しかも元恋人のリーザと当てつけのように結婚しようとするエルヴィーノという男は主役としては酷いキャラクターである。演じるシャビエール・アンドゥアーガは、ちょっと寂しげな眼差しの美男子なだけに、裕福なお坊ちゃん役がぴったりなのだが、このエルヴィーノ役に本人も共感ができないらしく、終始気乗りしないような顔で演じているのに苦笑。それにも関わらず、その歌唱は輝かしく、とびきり素晴らしいのだからあっぱれである。
シャビエール・アンドゥアーガ(T)
ロドルフォ伯爵を演じるバスのアレクサンダー・ヴィノグラドフも存在感抜群。彼も容姿端麗な上に深い低音の響きが印象的。プロフィールによるとモスクワ工科大学物理数学科に入学し、その後モスクワ音楽院声楽科に転向したというちょっと意外なキャリアの持ち主。
また今回演出をメキシコ出身の名テノール、ロランド・ビリャソンが担当しているのに注目。METでもスター・テノールとして活躍したが、近年では演出家としての活動が増えている。閉ざされた集落をイメージしたという舞台はスイスの雪深い山村の中。城壁のような雪に囲まれた高い壁の内側では村人は精神的にも閉塞的で、決して他者に心を開こうとせず、握手もしない。人々はお辞儀で形式的な挨拶を交わしているのだが、このよそよそしさはまるで日本人を見るようである。
夢遊病であるアミーナの不安定な精神状態を表すのは分身であるもう一人のアミーナ。男性中心の社会で抑圧された自由な心を象徴する存在だ。これは女性ダンサーが演じていて、度々登場するのだが、白いドレスにダークなロングヘア。ぼーっと立っていることも多く、まるで「貞子」のように見えてしまうのがなんともはや……。またこれは現代風な解釈によるラストに対しての伏線なのだが、ベッドが空に浮かんでいたり、扉にバツ印が付いていたり、夢遊病=夢の中という象徴的な演出が見られた。
ベッリーニ:「夢遊病の娘」より
しかしこの時代には「夢遊病」というのが憧れにも似た一つの流行のキーワードだったらしい。ひと昔前の映画やドラマの脚本にやたらと記憶喪失が多かったようなものだろうか。実際、「記憶喪失」になった人なんて日常生活ではほとんど会ったことがないけれど。
それにしても、ベルカントの醍醐味が存分に味わえるベッリーニの名作だけに、息の長い旋律を極上の歌唱で聴かせる。開幕作品ということでキャストにも実力者を揃え、相当力が入っている。ビリャソンが演出というのもMETの世代交代を感じるが、いつの時代もこれだけハイレベルの歌手陣を揃えることができるのは、やはり世界に冠たるオペラハウスのMETならでは。この豪華絢爛な舞台をお小遣い価格で楽しめるのはやはり嬉しい。
METライブビューイング2025-26シーズン
METライブビューイングのベッリーニ「夢遊病の娘」は東劇のみ12/11まで延長上映。今年は3月下旬にもベッリーニの「清教徒」が新演出でラインナップされている。現代の社会問題を提示した一昨年の意欲的な新作ラッシュは落ち着いて、初めての人にも受け入れやすいオペラ本来の魅力を発信するプログラムになっている。また12/12からはクリスマスのパリが舞台のプッチーニの名作「ラ・ボエーム」。こちらは正当派のゼフィレッリの演出版で楽しめる。
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