RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。クラシック音楽ソフトのバイヤー時代にラジオにも出演。その後に制作会社を経て、現在はフリーのラジオディレクターとして番組の企画制作に携わる。番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど幅広く活動中。
まだ7月に入ったばかりだというのに、東京の暑さは尋常ではない。
このコラムでも取り上げた吉原真里さんの著書「親愛なるレニー」の快進撃が続く中、本の中に登場するバーンスタインの若き日の恋人であり、その活動を支えた日本人、橋本邦彦氏が北海道大学で講演を行うことを知り、心が高鳴った。しかも聴講は無料、北大のウェブサイトには橋本氏の笑顔の近影写真まで掲載されているではないか!
そういえば7月は、バーンスタイン縁の音楽祭PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティヴァル)が開催されている時期である。スケジュールを確認してみると、講演日の前後は取り立てて急ぎの仕事もない。もともとは出不精の私だが、最近は仕事の出張が多いせいか、フットワークもいささか軽くなっている。この猛暑から脱出できるのも大きな理由だが、急ぎ北海道ツアーを企画。たまたま時間が空いていた友人とともに数日後には東京脱出を図った。
北海道は冬にも取材で函館と室蘭を訪れていたが、今回は北海道の中心地、札幌。気温は25℃前後で、午前中で既に30℃超えの東京とは雲泥の差で実に爽やかである。思えば札幌に来たのは20年振りくらいか。しかもあの時は函館、札幌、小樽の三都市を三日間レンタカーで回ったので、だいぶ駆け足だったが、今回は友人と私の二人ともペーパードライバーだし、市電や地下鉄利用でのんびり札幌市内を楽しもう、と思っていた。ところが友人はせっかく北海道に来たので北国の雄大な自然を満喫したいらしく、日帰りバスツアーに行きたいと言う。そこで一日目はせっかくなので一緒にPMFのコンサートを聴き、二日目は別行動に。私は北大の講演、彼女はラベンダー畑ツアー。大人になるとこういうフリーな二人旅ができるのも悪くない。
PMFを実際に聴くのは実は今回が初めてだ。滞在ホテルからも程近い中島公園の一角にある札幌コンサートホール「kitara」は緑に囲まれた美しい会場だった。ガラス張りのロビーには光が降り注ぎ、テラスへの扉は閉じられていたものの、木々を通り抜ける空気まで感じられるようで、これまで訪れていなかったのはとんでもない不覚であった。この日はウィーン・フィルのメンバーによる室内楽。大ホールで室内楽というのに初めは違和感があったものの、ホールの音響は素晴らしかった。客席には音楽祭のアカデミーメンバーらしい海外からの若者もたくさん見受けられた。
PMF2022より〈ヴァイオリン公開マスタークラス〉
翌日は一人で市電と地下鉄を乗り継いで北大まで向かい、少し早めに会場に到着した。スケジュールの都合で第一部の「PMFにみる世界と芸術」だけを聴くつもりで比較的中座しやすい席に座ったが、講演開始時刻にはかなりの人が集まっていた。
登壇者は司会の吉原真里氏、橋本邦彦氏、音楽ジャーナリストの林田直樹氏の三人。吉原氏がはきはきとした口調で見事に場を仕切っていく。林田氏もクラシック音楽の専門家として数々のメディアに関わっているので、こうした講演ではお馴染みである。しかし橋本氏に関しては本で知る限りだったので、どのような人物なのか個人的にとても興味があった。あの世界的な巨匠、バーンスタインに愛され、彼の亡き後も音楽の世界でしなやかに八面六臂の活躍を続けてきた日本人青年。現在は少しお年を召したものの、穏やかな笑顔の素敵な紳士となっていた。世界の一流指揮者や演奏家との交友録を話していても全く嫌味がなく、冗談を交えながら大好きな人々のエピソードを披露するのが嬉しくて仕方がない、といった風情である。その様子にこちらも自然と微笑んでしまう。なんとも魅力的な人だった。偉大なるバーンスタインに愛されたのも、彼と強い絆で結ばれていたのも、至極当然だと思った。会場の誰もがそう感じたに違いない。
バーンスタインは世界的な指揮者であり、「ウェストサイド・ストーリー」をはじめとした大人気ミュージカルの作曲家であり、自ら演奏して指揮を振るほどピアニストとしても名手だったが、教育者としての一面を忘れてはならない。大学での講演ということもあり、橋本さんもそれを強調されていた。音楽を通じて人間同士が関わることがいかに大切か、現代でも如実に言えることだが、コミュニケーションを怠ることで世界平和は簡単に脅かされてしまう。
PMF(2004年制作)より
日本が豊かだった20世紀という時代に、政治的な背景とバーンスタインの平和への理想、仲間たちの熱い想いが結集した音楽祭PMFは、札幌という日本でも独自の文化を有する土地で花開いた。音楽が人類の素晴らしい財産であることに疑いの余地はない。しかしそれを高い水準で維持していくことの難しさは明らかな事実でもある。しかしバーンスタインの理念を直接知る人々が才能ある若い世代にバトンを受け渡すことで、彼らが未来の巨匠になった時に日本の「札幌」という街をも含めて記憶に留めるだろう。それは本当に価値ある大きな投資なのだ。講演を聴けたことは私にとっても貴重な体験だった。
次の予定に向かうため第一部で講堂を出た。北大の緑のキャンパスを歩き始めた時、昨日聴いたウィーン・フィルのメンバーによる演奏が私の中で力強くリフレインしていた。
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