RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。
日々コンサートに出かけていると様々な場面に出くわすことがある。今回は私が最近遭遇したエピソードをいくつか挙げてみる。クラシック音楽のコンサートは独特のルールやしきたりがあることも事実だ。それを知らないと周りから白い目で見られてしまうこともしばしばである。もし少し不安を持っている人がいたらそれらの参考にしていただけるかもしれない。
都内でも音響の良さに定評ある中規模のホールA。クラシックを中心に汎用性の高い会場だ。駅からほぼ直結しているので雨の日も何かと便利である。この日は友人ととある海外の室内アンサンブルを聴きに来ていた。友人は最近このホールの近所に引っ越したこともあり、彼女がこの日のコンサート情報を見つけて誘ってくれたのだ。誰もが知っている類のアーティストの公演ではない、どちらかというと渋い、やや通好みのコンサートは聴きに来る人もある程度常連さんといった趣だった。
しかしこの日、一階のほぼ中央のS席に座るとなんだか妙な臭いが漂ってきたのである。前の列に座った人も時々後ろを振り向くほどの強烈な臭いは、どうやら開演直前に私の隣に座った男性から発せられているらしい。恐る恐る隣を伺うと、まだ蒸し暑さの残る日だったにも関わらず、男性はかなり年季の入った長袖のセーターに足元は履きつぶされたスニーカーである。
ここで断っておくが、クラシック音楽のコンサートだからといって、スーツやジャケットを着なければならない、という決まりがあるわけではない。Tシャツにジーンズ、スニーカーでももちろん問題はないが、敢えていえばコンサート会場や内容にもよる。これは会場の案内にもいちいち書いていないし、何度かコンサートを体験して雰囲気を掴む以外にないのだが、一般的に言ってくだけ過ぎない清潔な服装であれば、どんな会場でも浮くことはないだろう。
臭いの元凶は確定したが、コンサートはすぐに始まってしまった。空調の具合で時折一段と鼻につくこともあり、感覚がそちらに奪われてしまって全く音楽に集中できない。ほぼコンサートの前半は無駄にしてしまった。
少なからず腹が立ったが本人に文句を言えるわけでもない。会場でトラブルになればコンサートが台無しになり、逆にこちらが出入り禁止である。臭いというのは体温測定のように数値化できるものではないから、例え開演前に気がついても、主催者側も遮るわけにはいかないのだろう。それにしても尋常ではない臭いは反対側の席の友人にも届いていた。件の人は休憩時間にトイレに立ったようだが、その後ろ姿を見ると、ズボンの後ろのポケットがすっかり破れて垂れ下がっているではないか! 常識的に考えてもコンサートを聴きに来る服装としてはありえない。私たちは休憩時間にホールの人に事情を説明して席を変えてもらったのだが、少し後ろの席になってしまった。しかしまだ空席があったからいいようなものの、満席の場合を考えると、この問題の対処の仕方はホール側にとっても難しいところだろう。なんとか後半は演奏に集中したが、件の人の後頭部が前方の視界に入るだけで気分が悪くなってしまった。
そんなわけで、コンサート後の友人との会話では演奏の話より愚痴の言い合いになってしまった。今回私たちはS席を買っていたので、隣の席であればその人も同程度の金額を払って来ている筈だから、着る物に困っているというわけでもあるまい。コンサートの前半を台無しにされた上にこちらが座席を移動させられ、本人に直接クレームを入れられないとしたら、この怒りをどこに持っていけばいいのか。それにあの状態で普段どんな仕事をしているのか、などどうでもいい詮索までしてしまった。
またある時、とある自治体が主催するコンサートに行った。初めて訪れる会場だったのでトイレや座席の案内がわかりにくく尋ねたところ、ホール側の対応が無愛想なのもやや興醒めだったが、この時は演奏が終わると隣の席の男性がやたらとオーバーリアクションで拍手をするのも閉口した。心底演奏に感動しているならいいが、演奏中いびきをかいて寝ていた人に限って大袈裟な反応をするのは何故なのか。その男性は休憩後には姿を消していた。
逆にマナーを心得ている客層の場合は安心感がある。最近とある大物ヴァイオリニストのコンサートに行って、素晴らしい演奏に大変感銘を受けたのだが、中央の座席に着く時に「失礼します」と声をかけると、座っていた人がわざわざ立ち上がって(欧米ではわりと普通なことのようだが)通してくれた。時々やたらと大きな荷物を足元に置き、面倒くさそうにして全く通路を開けてくれない人もいる。当然だが大きな荷物はクロークに預けるのがマナーである。
いずれにしても素晴らしい音楽を聴きに来ているのに、それ以外のことで気分を害されるのは心外である。最低限のマナーは心得てコンサートを楽しみたいものだ。
※写真と本文の内容とは関係ありません。
清水葉子の最近のコラム
アントネッロの『ミサ曲ロ短調』
バッハの声楽曲でマタイ、ヨハネという二つの受難曲に匹敵する宗教的作品といえばミサ曲ロ短調である。 これまでの番組制作の中でも数々の名盤を紹介してきたが、私のお気に入りはニコラウス・アーノンクールの1986年の演奏。いわゆ…
目黒爆怨夜怪とノヴェンバー・ステップス
先日、友人Cちゃんの誘いで薩摩琵琶を伴う怪談のライブに行った。人気怪談師の城谷歩さんと薩摩琵琶奏者の丸山恭司さんによる「目黒爆怨夜怪」と題されたイベントは、文字通り老舗ライブハウス「目黒ライブステーション」で行われた。折…
西洋音楽が見た日本
ぐっと肌寒くなってきた。仕事が少し落ち着いているこの時期、私もコンサートや観劇に行く機会が多くなっている。ただ日々続々とコンサート情報が出てくるので、気が付くとチケットが完売だったり、慌てて残り少ない席を押さえたりするこ…
もう一つの『ローエングリン』
すごいものを観てしまった。聴いてしまったというべきか。いや、全身の感覚を捉えられたという意味では体験したといった方が正しいかもしれない。 なんといっても橋本愛である。近寄りがたいほどの美貌と、どこかエキセントリックな魅力…
知られざる五重奏曲
室内楽の中でも五重奏曲というのは、楽器編成によって全くイメージが変わるので面白いのだが、いつも同じ曲しか聴いていない気がしてしまう。最も有名なのはやはりシューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」だろうか。小中学校の音楽の授業でも…