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Dilemma

Column Feature Tweet Yoko Shimizu

亡き父を偲ぶ歌

YOKO SHIMIZU COLUMN


ラジオディレクター清水葉子コラム

清水葉子COLUMN
RADIO DIRECTOR 清水葉子

音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。

個人的なことを書くが、先月父が亡くなった。父はここ2年余り、ずっと入院していたので、遠からずこの日がやってくることは私も家族も予想はしていた。だから正直なところ、すごくショックというわけではなかった。最近はほぼ1日眠っていることが多く、話しかけても殆ど反応がなかったので、その日も眠っている父の枕元に座り、小一時間ほど寝顔を覗きながらスマホを見たりしていた。そして帰り際に「また来るね」と声をかけたところ、かぼそい声で父が何か言った。一瞬「電気を付けて」と言ったように聞こえたのだが、寝ているのに電気を付けるのも変だと思って聞き直したら、父はいつになく、はっきりと「元気でね」と言った。

その2日後、父は静かに逝った。

私が音楽に関わるようになったのは父の影響が大きかったように思う。父の母、つまり私の祖母はその時代には珍しく音大の声楽科を卒業した。また旅行会社に勤めていた祖父はスペイン語が堪能でアルゼンチンに赴任していたこともあり、タンゴのレコードをよく聴いていたという。そんな両親のもとに一人っ子として生まれた父は、若い頃からクラシックやジャズ、ポップスなど海外の音楽を愛好していた。アマチュアながらクラリネットやギター、ピアノも弾いた。耳コピでメロディーを弾いてしまうくらいの音感もあり、私が幼い頃は自宅のピアノでバッハのインヴェンションや、コラールの一節をつっかえながらも弾いていたのを覚えている。そのうちに私の方がそれらをピアノでスラスラと弾けるようになってしまったので、それ以降、父は聴くのが専門になってしまったのだが。クラシックでは特にバッハが好きで、ラジオの音楽番組もよく聴いていた。ブランデンブルク協奏曲をエアチェックしたとみられるカセットテープも、何本か見つかっている。

icon-youtube-play バッハ:インヴェンションとシンフォニア

また父は民謡の親しみやすいメロディーもお気に入りだった。アイルランド民謡「ダニー・ボーイ」や、フォスターの「故郷の人々」などをよく弾き語りしていた。最後の入院生活の中で、父が音楽好きだと知った担当看護師さんが気を利かせて枕元にCDプレイヤーを置いてくれた。ところがある日、病室を訪れたら、おそらく高齢の男性だからということで演歌のCDがかかっていた。それで私がスマホのApple musicからケルティック・ウーマンの「ダニー・ボーイ」を聴かせてあげたら、珍しく目を覚まして歌を口ずさんでいた。後日、病院のCDプレイヤーで聴けるようにCDを購入して枕元に置いていった。そういえば祖母も最後は認知症を患い、いつも不安げな目をしていたが、私がアイルランド民謡をヘッドフォンで聴かせてあげると歌を口ずさんでいたっけ。いつのまにか私は清水家の音楽療法担当になっているようだ。

icon-youtube-play ケルティック・ウーマン「ダニー・ボーイ」

父は某テレビ局に勤めていたので、サラリーマン時代はサントリーホールのある六本木のアークヒルズに通っていた。1986年のサントリーホールのオープンの日にはあの壮大なパイプオルガンのコンサートを聴きに行っていたようである。ホール正面に聳え立つ5898本ものパイプを有する世界最大級のオルガンの響きには感動したようで、その後、バッハのオルガンのCDを何枚か買い集めていたのを知っている。私が生まれて初めてサントリーホールに足を踏み入れたのも父と一緒だった。今思えばもう少し父とコンサートデートをしてあげてもよかったな、と思う。

そんなことを考えながらその日私はサントリーホールにいた。東京交響楽団の定期公演はジョナサン・ノットが指揮するバッハのマタイ受難曲だった。父が亡くなってからたった3日後のコンサートだったので、ちょっと特別な想いで聴いた。大編成のオーケストラで聴く「マタイ」をライブで聴く機会は近年では珍しく、冒頭の重い足取りのようなテンポと少しピッチが定まりきらない合唱に、時代を巻き戻したような錯覚に襲われる。元気だった頃の父は、車やオートバイ、カメラが大好きで、ユーモアもある人だった。多趣味で飽きっぽいところもあったけれど、穏やかで軽妙洒脱な性質は、今聴いている重厚な「マタイ」とはややイメージがかけ離れているせいか、涙が止まらなくなるようなことはなく—本当は号泣してしまうのではないかという危惧があったのだが—比較的冷静にホールを後にしたのだった。

東京交響楽団「マタイ受難曲」
東京交響楽団「マタイ受難曲」

ところが帰りの地下鉄の中で、またもスマホのApple musicで「マタイ受難曲」を聴き直していると—これはラファエル・ピション指揮ピグマリオンによる演奏だったのだが—この軽やかな「マタイ」に不覚にも涙が溢れてしまい、慌てて乗り換えのために車両を降りた時に派手に転倒してしまった。バイクで交通事故に遭ったり、趣味の登山で山から滑落して骨折したりして度々家族をびっくりさせていた父。おっちょこちょいは父譲りだな、と妙に現実に引き戻され、泣き顔を世間に晒す心配は免れた。

icon-youtube-play バッハ:マタイ受難曲よりbyピション指揮ピグマリオン

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