RADIO DIRECTOR 清水葉子
フリーランス・ラジオディレクター。TOKYO FMの早朝の音楽番組「SYMPHONIA」、衛星デジタル音楽放送ミュージック・バードでクラシック音楽の番組を多数担当。「ニューディスク・ナビ」「24bitで聴くクラシック」など。趣味は料理と芸術鑑賞。最近はまっているのは筋トレ。(週1回更新予定)
クリーヴランド管弦楽団といえばアメリカの5大オーケストラとも言われる、名門オーケストラ。音楽監督ジョージ・セルが20年以上に渡って、地方オーケストラの一つに過ぎなかったこの楽団を一流のオーケストラに育て上げたことでも有名だ。その時代1950〜70年頃、アメリカでは録音技術が発達し、彼らの演奏も数多くのレコーディングが行われ、その鍛え上げた精緻なアンサンブルを世界中の音楽ファンに知らしめた。日本でもクリーヴランド管弦楽団と言えば、セルの指揮、といった印象が今でも強い。近年では村上春樹の小説にこのセル&クリーヴランド管の演奏するヤナーチェクの『シンフォニエッタ』が登場したことでも一躍有名になった感がある。
ヤナーチェク:シンフォニエッタ
そのクリーヴランド管弦楽団の来日公演が先頃、行われた。現在の音楽監督は1960年生まれのオーストリアの指揮者、フランツ・ウェルザー=メスト。彼が率いての今回の来日公演は楽団創立100周年の記念公演でもあり、ベートーヴェンの交響曲全曲ツィクルスということで話題となっていた。もちろん通して全曲を聴く、というツワモノもたくさんいたようである。私は例によって直前までスケジュールが決まらなかったのだが、思いがけず初日の公演のご招待を頂き、サントリーホールに聴きに行くことができた。
今回の公演ではプログラムにウェルザー=メスト自身が言葉を寄せていた。このベートーヴェン・ツィクルスは〈プロメテウス・プロジェクト〉と題されている。プロメテウスとはギリシャ神話に出てくる神で、神の長であるゼウスに逆らい、人類に火や穀物をもたらした文化英雄の神だ。その存在こそベートーヴェンという作曲家が、音楽によって我々に与えた思想や理念に通じるものがある。ベートーヴェンの作品を聴くことで、彼が生きた時代におけるその音楽の革新性と根底にあるものを再認識しようという試みである。
初日のプログラムはまさにその『プロメテウスの創造物』の序曲から始まった。バレエ音楽だが、現在はもっぱらこの序曲が演奏されることが多い。しかしベートーヴェンはこのプロメテウスの素材を交響曲『英雄』や『エロイカ変奏曲』などに使用しており、彼自身、プロメテウスを理想像として捉えていたことがよくわかる。続いて交響曲第1番ハ長調。1800年に作曲されたベートーヴェンの初期の交響曲。まだハイドンやモーツァルトといった古典的な作曲家の影響も色濃く残るものの、第3楽章のメヌエットが実質的にはスケルツォとなっているなど、随所にベートーヴェンらしさもみられる。実際休憩までの前半の演奏は、さすがの名門オーケストラの美音にハッとさせられるものの、上品な響きの中に終始しており、身を乗り出すほどの感動というものではなかった。
ベートーヴェン:プロメテウスの創造物
ベートーヴェン:交響曲第1番
しかし、である。休憩が終わって席に着いたところ、舞台上手側の2階席辺りがざわめいた。カメラのフラッシュがたかれ、かなりの著名人が入ってきた感じがした。やがて姿を見せたのが天皇皇后両陛下であった。にわかに会場全体が歓声に包まれ、ほぼ全員が立ち上がり、拍手をした。私も何度か皇族がご臨席になったコンサートに居合わせたことがあるが、こんなに会場全体が盛り上がったのは初めてではないだろうか。やはり退位を公にされ、初めての大きなコンサートということもあったのだろう、私も周りの空気に後押しされ、自然に立ち上がって拍手をした。舞台を見るとオーケストラの楽団員たちももれなく天皇皇后両陛下の方に体を向けていた。
やがてウェルザー=メストが登場し、いよいよ『英雄』が始まる。第1小節目の和音が奏でられたとたん、覚醒した。もちろん眠っていたわけではない。私もおそらく周りの人も、オーケストラも「覚醒」したと言ってもいい。それまでの演奏とは明らかに違う、まさにクリーヴランドのアンサンブルが結晶した、という響きだった。実はオーケストラの楽器の編成も後半は倍管となっており、そのぶん響きに厚みが増した、というのも事実だった。それ以降の演奏はまさにプロメテウス=『英雄』そのもの。セルの時代からの一糸乱れぬアンサンブルはそのままに、弦楽の流麗な音色、管楽器群の力強く、迷いのない響き、現代のモダンオーケストラのほぼ理想形といっていいだろう。そのまま終楽章まで走り抜けた演奏にいつまでも拍手と歓声がやまなかった。もちろん天皇皇后両陛下も惜しみない拍手を送られ、それを目にした私たち聴衆もまた温かい気持ちになり、陛下が出ていかれるまで拍手を続けたのであった。
演奏はもちろん素晴らしかった。しかしここまで日本人の心を一つにする存在がまだ日本にあったのだ、とちょっとした驚きを新たにした。歴史や政治を超え、象徴としての天皇の存在はもはや私たち戦後の世代の中に確実に根付いている。それは実に純粋に「尊敬」というキーワードで。
こうして6月の夜、〈プロメテウス・プロジェクト〉は幕を開けたのだった。
W=メスト&クリーヴランド管〈プロメテウス・プロジェクト〉
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