

RADIO DIRECTOR 清水葉子
音大卒業後、大手楽器店に就職。その後制作会社を経て、フリーのラジオディレクターとして主にクラシック音楽系の番組企画制作に携わるほか、番組連動コラムや大学でゲスト講師をつとめるなど多方面に活躍。2022年株式会社ラトル(ホームページ)を立ち上げ、様々なプロジェクトを始動中。
甲子園が終わると夏もそろそろ終わりである。この時期に行われるのがMETライブビューイングのアンコール上映だ。先シーズンのプログラムを中心に過去の評判となった演目もいくつか上映されるので、見逃した作品はここで観るチャンスでもある。今回私がチェックしていたのはジョン・アダムズのオペラ「ドクター・アトミック」だ。
METライブビューイングアンコール上映(東劇)
昔は夏休みの登校日には必ず広島と長崎の原爆の関連の映画を観たり、戦争体験の話を聞く機会があったものだ。8月6日、9日の原爆投下の日、そして終戦の8月15日は忘れることのできない日として心に刻まれている。この時期の上映というのにどこか納得感があるのも、夏の終わりに戦争へ思いを馳せることがどこか習慣となっている私たち世代の感覚なのかもしれない。
以前ハイレゾの音楽番組を制作していた時に、この「ドクター・アトミック」が作曲者自身の指揮、BBC交響楽団の演奏で配信され、選曲したことがあった。その時は当然オペラの音楽だけを聴いたのだが、強く衝撃を受けたのを思い出す。配信サイトで番組連動コラムを書いていたこともあり、オペラの舞台として観たらどんなだろう? と、非常に興味をかき立てられていた。折しも少し前にクリストファー・ノーラン監督による映画「オッペンハイマー」が上映された。それを観てからは映画とオペラを比較してみたいという興味もあった。実際、映画の「オッペンハイマー」の上映時間は3時間とかなり長い。オペラの「ドクター・アトミック」は正味2時間半ほど。映画ではオッペンハイマーの人生と世界の歴史的な流れの中での原爆、という位置付けであったのに対し、マンハッタン計画からトリニティ実験を中心に据えたオペラはその中で関わる人物たちの心の葛藤を描いている。
映画「オッペンハイマー」予告編(公式チャンネルより)
正直に言うと音楽を先に聴いていた私としては、オペラの視覚的要素はさほどこの作品に膨らみを持たせるものではなかった。もちろん主役のオッペンハイマーを演じたジェラルド・フィンリーを含め、出演者たちの迫真の演技や演劇的な舞台演出は素晴らしかったが、それ以上に音楽に劇的な要素が詰め込まれている。アラン・ギルバートの力強い指揮もそれに一役買っていただろう。舞台は冒頭からSEを多用している。それはラジオから途切れ途切れ聴こえる歌や、ノイズのような電気音、戦闘機のジェット音などだ。現代は無数の噪音で溢れている。それらを「音楽」で表現するよりも、直接「音」として拾ってしまった方が、リアルな表現になることもある。それら「音」も内包しながら、ドキュメンタリー的な表現の一つとしてこのオペラ全体は成り立っている。
また科学者でありながら文学的な教養も持ち合わせていたオッペンハイマーが愛読していた小説や詩から引用した歌詞も多い。それらは時に美しいアリアとなり、時に劇的な合唱となって聴く者に深い思索を巡らせる。これはネタバレになるかもしれないが、最後に日本語で語られる「水を下さい……」という乾いた女性の声。我々日本人には当然、これが何を意味するかを即座に理解してしまうのだが、字幕で観るニューヨークのメトロポリタン歌劇場や世界の観客にはどう捉えられたのだろうか。
オペラ「ドクター・アトミック」より
ジョン・アダムズについて補足しておこう。1947年生まれのアメリカを代表する現代作曲家であり、ハーバード大学ではシェーンベルクの弟子であるレオン・キルヒナーに作曲を学んだ。その後はミニマルミュージックの作曲家としても活躍。しかし1985年のオペラ「中国のニクソン」では中国を訪れたニクソン大統領を描き、1991年のオペラ「クリングホファーの死」では実際のシージャック事件を題材にした。2002年のアメリカ同時多発テロ事件の犠牲者の追悼として作曲された「魂の転生」など、時事問題を扱った多くの作品は注目度も高く、グラミー賞現代音楽部門、ピューリッツァー賞など数多くの賞を受賞している。この「ドクター・アトミック」も世界中で再演されている稀有な現代オペラとして知られる。サンフランシスコ交響楽団やベルリン・フィルのコンポーザー・イン・レジデンスも務め、オペラ以外の作品も主要なオーケストラのレパートリーとして演奏されるなど、現代屈指の人気作曲家である。また指揮者としてもロンドン交響楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、BBC交響楽団など一流オーケストラと共演、今年初めには来日して東京都交響楽団に客演し、話題となった。
世界ではロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナといった戦争が未だ続いている。戦闘目的として、そして抑止力として核を保有するという国が次々に増える中で、原爆の投下という人類史上最も残酷な痛みを持つ国の人間として考えさせられることは多い。今年は戦後79年。日本でも戦争を直接知る人々は年々少なくなっている。映画やオペラなど、文化の中でこの問題が取り上げられ、語り継がれる意味は大いにあるだろう。
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